新渡戸稲造の名言・格言

江戸時代から昭和時代に活躍した日本の教育者、思想家。

農業経済学・農学の研究者。国際連盟の事務次官も務める。
妻はアメリカ人のメアリー・エルキントン(新渡戸万里子)。
東京女子大学、東京女子経済専門学校(現・新渡戸文化短期大学)の初代学長。

「勇気がある人というのは、心の落ち着きが姿にあらわれているものです。」

「武士道は知識を重んじるものではない。重んじるものは行動である。」

「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。」

「武士の教育において守るべき第一の点は品質を建つるにあり。」

幼少期の新渡戸稲造

9月11日に陸奥国岩手郡盛岡城下(現・岩手県盛岡市)で、父・新渡戸十次郎(盛岡藩士)の3男として生まれる。

父は盛岡藩主・南部利剛の用心(主君の命を家中に伝達し庶務を司る)を務めていた。

幼少期には藩校の作人館に通い学問や武芸を学ぶほか、新渡戸家と親しい医者から英語を学ぶ。

幼少の頃に、新渡戸家に来た明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に励むべし」と声をかけられたことで、農学を志すようになった。

15歳の新渡戸稲造(1877年)

札幌農学校に入学。

15歳となった稲造は当時唯一博士号を授与できる高等教育機関であった札幌農学校(現在の北海道大学)に入学する。

札幌農学校在学時に食堂に「右の者、学費を払うべし」という張り紙が貼られた時に、稲造は「俺の生き方を紙切れで決められてたまるか」と叫び、その紙を破り捨てて退学一歩手前までいったという。

在校中に札幌丘珠事件(日本史上4番目に大きな被害を出した獣害事件)が発生した際には捕らえた羆を解剖した。

卒業後は北海道庁に採用され、イナゴの異常発生の研究・対策をした。

22歳の新渡戸稲造(1884年)

アメリカへ留学する。

「太平洋の架け橋になりたい」と思っていた稲造は、私費でアメリカへ行きジョンズ・ホプキンズ大学に入学する。

アメリカ留学中にはキリスト教プロテスタントの一派であるクエーカー派の会員となるほか、女性の地位向上に取り組んでいたメアリー・エルキントンと結婚する。

25歳の新渡戸稲造(1887年)

ドイツに留学する。

ジョンズ・ホプキンス大学を中退し、官費(政府の費用)でドイツに留学する。
ドイツではハレ大学に入学し農業経済学の博士号を得る。

稲造はアメリカでの留学で、農業と経済は関係していると考えていた。

44歳の新渡戸稲造(1906年)

京都帝国大学で法学博士の学位を受ける。

また、文部大臣・牧野伸顕により「日本のリーダー育成」にふさわしい人物として評価され、第一高等学校(現・東京大学教育学部と千葉大学医学部・薬学部の前身)の校長となった。

58歳の新渡戸稲造(1920年)

国際連盟の事務次長に選ばれる。
※教育者で『武士道』の著者として国際的に有名であったため

事務次長としては人種的差別撤廃提案の主張やバルト海オーランド諸島帰属問題(1912)の解決に力を注いだ。

稲造は事務次長を1926までの7年間務めて退任した。

71歳の新渡戸稲造(1933年)

出血性膵臓癌により死去。

カナダで開かれた太平洋問題調査会会議に日本代表団体団長として出席した。
しかし、会議終了後に倒れ、手術・入院するも亡くなった。

稲造が亡くなったこの年は、自身が事務次長を務めていた国際連盟から日本が脱退した年でもあった。

小村寿太郎の名言・格言

江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。

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「ことの善意は、その人の決心一つで決まる。」

「事前は滅多に、偉人や天才をこの世に下しせぬ。幾万人、あるいは幾億人に一人か、幾百年あるいは幾千年に一人しかそんな人間はでるものではない。それを書物の上で見て、そんな偉人や天才がごろごろう生まれているように想像する。それは大きな間違いである。」

「日本には、まだ外交はないのだ。真の外交はこれから起こってくるのだ。」

「私の苦労はこれからであります。私の真正の仕事はこれからである。これまではほんの準備にとどまっておりました。」

15歳の小村寿太郎(1870年)

大学南校(東京大学の前身)に入学。

貢進生(各藩から推薦を受け大学南校に入学した学生のこと)に選ばれ大学南校に入学する。
大学南校では5人の学友とともに留学運動を起こし政府に建議書を提出する。

そして、第1回文部省留学生に選ばれアメリカへの留学を果たす。

38歳の小村寿太郎(1893年)

第2次伊藤内閣で外務大臣を務めていた陸奥宗光に認められ清国代理公使となり、清国との交渉に当たった。

また、乙未事件(朝鮮国皇后・閔妃の暗殺事件)の際には、駐韓弁理公使として、在朝鮮ロシア総領事のカール・ヴェーバーと交渉した。

45歳の小村寿太郎(1900年)

清国で起こった義和団事件の際には、講和会議全権として事後処理にあたる。

※義和団事件(庚子事変)とは日清戦争後に生活に苦しんでいた農民らが排外主義を掲げ、外国人や教会を襲った事件。北京の列国大公使館を包囲した。

46歳の小村寿太郎(1901年)

第1次桂内閣で外務大臣に就任。

外務大臣としては日英同盟の締結(1902)や日露戦争後のポーツマス条約(1905)を成功させている。

また、アメリカの実業家であるハリマンが満州での鉄道経営を日米共同経営という提案をしてきた際には、桂太郎総理が共同経営を推す中、寿太郎は反対しアメリカのと共同経営を拒否させた。

56歳の小村寿太郎(1911年)

外務大臣として日米通商航海条約を結ぶ。

幕末以降、日本にとって不平等であった条約を改正するためにアメリカと交渉し、関税自主権を回復した。

また、日露協約や韓国併合でも大きな功績を残した。

しかし、この頃になると結核の病状が悪化し、11月に葉山町の別荘で死去。56歳。
墓所は青山霊園にある。

吉田茂の名言・格言

明治時代から昭和時代に活躍した日本の外交官、政治家。

内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)。

第一復員大臣、第二復員大臣、農林大臣などを歴任。

皇學館大学初代総長、学校法人二松学舎第5舎長。

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「忙しいと疲れたは自慢にならん。」

「今に立ち直る。必ず日本は立ち直る。」

「三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は行き続ける。」

「大志を抱けば、天下何ものか恐るるに足らず。」

「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある。」

幼少期の吉田茂

9月22日に東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)に竹内綱の5男として生まれる。

父は自由民権運動の主導者・板垣退助の腹心であったが、茂が生まれる前に反政府陰謀の罪で逮捕される。

母は茂が生まれる前に東京にいた吉田健三(竹内綱の親友)もとに身を寄せて茂を生んだ。
※3年後に吉田健三の養子となる

少年期は義母に厳しく育てられた。

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58歳の吉田茂(1936年)

駐英大使に就任する。

駐英大使としてはイギリスとの親善を目指すも、東アジアでの情勢が悪化したことからうまくいかなかった。
また、広田内閣が組閣された際には、外務大臣になるはずであったが軍部の反対に合いかなわなかった。
※吉田茂は英米よりの考えをもっていたため軍部から反対をうけた

親英米の考えを持っていた吉田であったが、日独伊三国同盟には反対であった。

63歳の吉田茂(1941年)

太平洋戦争の勃発。

吉田は開戦直前まで米大使のジョセフ・グルーや外務大臣の東郷茂徳と会談し開戦阻止に動いていた。

日本海軍がミッドウェー海戦(1942)で敗れると、和平交渉のためにスイスに赴こうとするが、直後に日本軍が勝ったこともあり失敗する。

67歳の吉田茂(1945年)

憲兵隊に拘束される。

日本の敗色が濃厚となると終戦策として近衛上奏文に協力する。
しかし、この行為が軍部のスパイに見つかり憲兵に拘束される。

その後、敗戦した日本はGHQの占領下に入るが、GHQからは「反軍部」として信用された。

戦後は東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣になる。

73歳の吉田茂(1951年)

サンフランシスコ平和条約の締結。

この条約締結は吉田の政治生命をかけたものであった。

この条約により、日本と連合国の間にあった戦争状態を終結させ、日本はGHQの占領から独立する。

演説の最後は

「われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。」

という内容で締めくくる。演説内容の全文はコチラ

またサンフランシスコ講和会議には白洲次郎が全権団顧問として随行。吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更された。

また、アメリカとは日米安保条約(旧安保)を結び、日本国内に米軍の駐留を認めた。

榎本武揚の名言・格言

江戸時代から明治時代にかけて活躍した日本の武士、化学者、政治家。

逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任。
●樺太・千島交換条約締結後にはロシアの実情を知るためにシベリアを横断した。
●海外殖民にも興味を持っており、主にメキシコへの殖民を行った。
●富山県で発見された隕石から日本刀を作らせて皇太子(後の大正天皇)に献上した。

榎本武揚の名言
「人為の階級こそ差はあれども、その教育に対するに至りては同じく共に責任を負うものなり。同じ釜の飯を食うものなり。」

「振り返ってみて五稜郭のときの苦労を思えば、外務大臣の仕事などどれほどのものでもない。」

「新政府軍恐るるに足らず。軍略をもって勝ちを制したい。」

「王政復古は日本の幸福であり私も希望するものだ。しかし、明治政府はその題目に公明正大であっても実態はそうではない。新政府軍は徳川慶喜に朝敵の汚名を着せ、ひどい扱いをし、つには城を没収し、蓄えを奪い、先祖の墓まで廃し、さらに領地を政府のものとし、慶喜は自宅を持つことさえできない。これは政府が有力諸藩の意のままになっているからであり、本当の王政とはいえない。」

幼少期の榎本武揚

10月5日に江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋)で榎本武規の次男として生まれる。幼名は釜次郎。

父・榎本武規は伊能忠敬のもとで「大日本沿海輿地全図」の作成にも関わっている。

幼少の頃は近所に住んでいた田辺石庵のもとで儒学を学ぶ。