33歳の金栗四三(1924年)

1924年(大正13年) 第8回オリンピック(パリ)にも日本代表選手として参加。マラソン競技に出場したが、32km付近で意識不明となり完走はならなかった。
これ以降、四三は競技人生から引退し、後輩の指導に本格的に取り組むようになる。

33歳の陸奥宗光(1877年)

西南戦争が勃発。

この時に、陸奥は西郷隆盛に呼応し政府転覆を謀った土佐立志社の林有造らと連絡を取っていたことが発覚し、禁固5年の刑を受けて山形で投獄される。

投獄中には妻・亮子に手紙を送るほか、英国の哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込む。

33歳の源頼朝(1180年)

後白河法皇の皇子・以仁王から平家追討の令旨(命令書)が届く。

京都の宇治で以仁王が敗死したことで、頼朝はしばらく動かなかったが、平家が源氏追討を企てたことで挙兵を決意する。

しかし、相模国真鶴(現 神奈川県小田原市)で平家方に敗れ、安房国(千葉県南部)に逃れた。

安房国へ逃れたものの、房総半島に勢力を持っていた上総氏や千葉氏を配下にし、さらに武蔵国でも配下を増やすと鎌倉へ向かう。

そして、平維盛(清盛の孫)を富士川の戦いで破った。

さらに、全国各地の源氏が平家打倒のため挙兵する。

33歳のフローレンス・ナイチンゲール(1853年)

ロンドンの慈善病院に就職し、監督者となった。
翌年、34歳で書き上げた自伝的小説『カサンドラ』(未出版)では、神からの啓示を実行するために結婚を断ったこと、看護の道へ進むことに反対する母との確執から神経衰弱に陥ったこと、そして自殺願望があったことまでが赤裸々に綴られている。

33歳のパブロ・ピカソ

総合的キュビスムで蘇った色彩を更に豊かにして、緑色を基調とした装飾的な作品を描き始めました。その優雅な表現から、18世紀の華やかな芸術文化ロココに喩えて、ロココ的キュビスムと呼ばれている。

《若い娘の肖像》

翌年1915年の作品
《アルルカン》

33歳の杉原千畝

満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。
ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。

33歳のアラン・チューリング

戦時中の功績が認められ大英帝国勲章(OBE)を授与。

ある専門家によると、チューニングの暗号解読によって、数百万人の命が救われ、また戦争が約2年早く終わることになったといわれている。

33歳の三浦知良

1999年京都パープルサンガに移籍。2000年5Jリーグ通算100得点を達成。33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都は降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。

33歳のロバート・キャパ

アメリカ市民権を獲得し、イングリッド・バーグマン(スエーデン出身のアカデミー賞を受賞した女優)やピカソら著名人を撮影した。

 

特にバーグマンとは恋仲になったものの、結婚するまでに至ることはなく別れている。

33歳のカール・マルクス

ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員に。借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである。

33歳の坂本龍馬

土佐藩参政後藤象二郎と会談。亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
この時「世界の海援隊でもやりますかな」と言ったとされている。

購入した海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没。御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。

後藤象二郎とともに船中八策を策定。
薩土盟約成立。
大政奉還成立の1ヶ月後、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。