1917年(大正6年) 独協中学に移り、マラソンや駅伝の普及に一層力を尽くすようになった。
このころ、日本初の駅伝『奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走』を企画実行した。
タグ: 1917年あの人は何をしていたか
33歳の山本五十六(1917年)
腸チフスと虫垂炎にかかり、生命の危機に陥る。
故郷の長岡で休養した後、友人の紹介で三好礼子と見合いし結婚。
36歳のパブロ・ピカソ
1917年からキュビスムによる表現を一変させ、古典絵画への回帰を思わせる写実的な表現で描くようになった。
かねてより依頼されていたロシア・バレエ団の舞台装置や衣装の製作ためにイタリアのローマに滞在。そこで、バレエ団の踊り子オルガ・コクローヴァ(27歳)と知り合い、1918年に彼女と結婚
《安楽椅子のオルガ》
17歳のサン=テグジュペリ
弟フランソワ、死去。海軍兵学校受験準備のためパリへ行く。
14歳の知里幸恵
旭川区立女子職業学校に110人中4番で合格。
23歳の松下幸之助
大阪電灯(株)を退社。
自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。
新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。
その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。
14歳の吉田秀雄
小倉中学に入学。横井家の養子となるが、横井家に実子誕生し縁組解消となる。
翌大正7年吉田一次の養子となる
32歳の正力松太郎
早稲田大学の学園騒動を鎮圧。翌年の米騒動鎮圧の功により従六位に叙せられる。
77歳の渋沢栄一
日米協会創立・名誉副会長。
38歳のアインシュタイン
一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(これは後に実証される)。