1878年、留学から日本に帰国する。
タグ: 30歳あの人は何をしていたか
30歳の田中正造(1871年)
再び投獄される。
江刺県の役人となった正造であったが、上司・木村新八郎の暗殺事件が起こると正造が犯人にでっち上げられる。
この時、正造は医者が来るまでに木村の応急措置をしていたが、正造の服に血が付いていたことや日頃から上司や他の役人らと言い争いをしていたことから疑われた。
※約3年の投獄後に木村新八郎の息子が無罪を証言したことで釈放される
獄中では厳しい取り調べがあったものの、書物を読んで西洋の政治などを学んだ。
30歳の大隈重信(1868年)
明治維新がなされると、徴士参与職と外国事務局判事に任ぜられる。
キリスト教禁令についてイギリス公使のハリー・パークスと交渉する。
この時、パークスの「信者を解放し、信教の自由を認めよ」という抗議に、31歳の重信は「国際法で禁止されている内政干渉だ」と反論、さらに「キリスト教(とくに欧州)は戦乱の歴史である」と続け、今の日本で急速なキリスト教解放をすると混乱が起きると主張しパークスを説得した。
30歳の大久保利通(1860年)
島津久光に初めて会う。
久光へ近づくために、久光が好きだった囲碁を習ったと言われている。
勘定方小頭格につくと、翌年には御小納戸役につき藩政に関わるようになる。
※小納戸とは殿様の身の回りの世話をする者
30歳のナポレオン(1799年)
第一統領になる。
エジプトから帰還したナポレオンはフランス民衆から歓喜もって迎えられた。
しかし、この時のフランスはイギリスに敗れたこともあり、ブルジョワジー(中産階級)は総裁政府に対して糾弾する声を上げていた。
※総裁政府は5人の総裁が行政を担当した
このような中、ナポレオンはブルジョワジーの期待に答えて総裁の1人であったエマニュエル・シエイエスらとともにクーデターをおこし(ブリュメールのクーデター)、統領政府(執政政府)を樹立する。
ナポレオンは第一統領(行政権・軍の統帥権を持つ)となる。
※第二、第三統領は諮問機関に近い
30歳の西郷隆盛
京都で斉彬の訃報を聞き、一度は殉死しようとしたが、僧である月照に説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。
安政の大獄で終われ、月照とともに入水も奇跡的に西郷は助かる。
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居することになった
30歳のスティーブ・ジョブズ
スカリーはアップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになり、Macintosh部門からジョブズを解任することを取締役会に要求する。
それを察知したジョブズは、スカリーの中国出張中にスカリーの追放を画策するが、密告により、スカリーはジョブズが自分をアップルから追い出そうとしていることを知る。
その後、スカリーは、取締役会で、ジョブズに自分の追放を画策した事について問いただし、この結果ジョブズは会長職以外、アップルでのすべての仕事を剥奪される。
スカリー宛に辞表を送付、アップル社の株・約650万株をすべて売却。高等教育のためのコンピュータという構想を実現すべく新しい会社NeXTを立ち上げる。
30歳の徳川家康
武田信玄の上洛戦途上、三方ヶ原の戦で大敗。
翌年、武田軍によって三河設楽郡の野田城を2月には落とされたがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。
このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる
出典;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mikatagaharasenekizou.jpg
30歳のサン=テグジュペリ
アンデス山脈に不時着した同僚の救出にあたる。
アルゼンチンでコンスエロ・スンシンと出会い、翌年結婚。
30歳の吉田秀雄
光永社長に随行し、満州国を視察旅行。
1936年に電通は通信部門と別れ広告専門会社として改組される。
30歳の三浦知良
怪我もあって試合出場数は半分に満たない14試合にとどまり得点数もわずか4点しか上げることができず、チームは初の二桁順位。この年あたりから以前のようなキレが徐々に無くなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦でのラフプレーで尾てい骨を骨折しコンディションを大きく落としてしまう。
30歳の安室奈美恵
「Baby Don’t Cry」をリリース
30歳の田中角栄
第2次吉田内閣が発足。新内閣で田中は法務政務次官に就任。
まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。
田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。
12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。
30歳のロバート・キャパ
30歳のオスカー・シンドラー
彼の諜報活動が露見した時、チェコの鉄道内部の秘密情報を漏らしたということで、大叛逆罪の罪で死刑の宣告を受ける。
しかし、1938年10月にドイツのズデーテン併合があったため、ドイツによって刑の執行は中止された。
30歳の桜井和寿
口笛
NOT FOUND
リリース
前妻と離婚。不倫関係にあった吉野美佳と再婚。
30歳のアドルフ・ヒトラー
前年に成立したバイエルン・ソビエト共和国共和国軍にスパイとしてスカウトされる。
ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。
ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた
30歳の手塚治虫
売れっ子漫画家が多数出現。この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちのうちの一人に過ぎなくなっていた。さらに手塚を脅やかしたのは、この時期に新らしく登場してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした。
手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたとい
30歳のタモリ
新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いというのなら一度見てみたい」とタモリを上京させる機運が高まり、バーの常連により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、同会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。
開かれた独演会では「4か国語麻雀」や「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露。
面白いことをやっている人間がいるという噂を聞きつけた、赤塚不二夫がタモリの元を訪れる。赤塚は、タモリの即興芸に心酔し、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組にタモリを出演させることを決意。放送までまだかなり日数があったため、タモリは福岡に帰ることを望んでいたが、「タモリの芸をもっと見たい、福岡に帰したくない」と考えた赤塚は、4LDKの自宅を自由に使っていいからと東京に残ってくれとタモリに懇願。タモリはこれを了承し、赤塚宅での居候生活が始まる
30歳のトーマス・エジソン
1877年に蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。
30歳の渋沢栄一
官営富岡製糸場設置主任となる。
30歳のカール・マルクス
小冊子『共産党宣言』を完成させる。
「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説いている。
以下の有名な言葉で締めくくった。
「共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ」。
同年3月、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられ、またマルクス夫妻は逮捕された。
翌日に釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。
3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた。
30歳の土方歳三
池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。
30歳の福澤諭吉
長州征伐が始まる。幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。
30歳の坂本龍馬
1864年
帰国命令を無視して再脱藩。
5月に神戸海軍操練所創設するも、11月には勝が軍艦奉行を罷免。
龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。