1947年(昭和22年)「金栗賞朝日マラソン」が朝日新聞と陸連との共催で熊本市で開催(のちの「福岡国際マラソン」となる)され、国際的なマラソン選手の育成に貢献。
タグ: 1947年あの人は何をしていたか
69歳の吉田茂(1947年)
日本国憲法の施行。
第23回衆議院議員総選挙では高知県全県区より日本自由党から立候補しトップ当選する。
一方、与党は日本社会党となり、吉田は総辞職する。
17歳のウォーレン・バフェット
1947年にペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に入学したが中退。その後ネブラスカ大学リンカーン校に編入。
66歳のパブロ・ピカソ
息子クロード誕生。陶器製作も開始。
1949年には娘パロマも誕生。
47歳の杉原千畝
外務省を依願退職
世界平和建設団事務局に就職。
53歳の松下幸之助
制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰
44歳の吉田秀雄
上田3代社長がGHQの改正公職追放令に該当し辞任、吉田秀雄が第4代社長に就任
この年に電通経営の三施策を打ち出していた。その一つが商業放送の設立であった。残る二つは、クリエーティブ技術の向上、マーケティング理論の確立。
吉田が設立準備委員長に就任。商業放送実現の推進をする。
社の資金繰りに悪戦苦闘を強いられる中、ときを同じくして自薦他薦に関係なく、「電通」の社員を募集しつづけた点であった。
しかも、「公職追放」に該当する者を、それを承知で傍系会社まで作って入社させている。 優秀な人材こそが広告界の発展にかかせないという考えがあったという。
29歳の田中角栄
日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位で当選。
9月に長男正法4歳で死亡
11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。
34歳のロバート・キャパ
1947年にアンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成。同年にジョン・スタインベックらと共にソビエト連邦へ旅行に向かう。1948年にはイスラエルの建国と第一次中東戦争を取材した。
19歳の手塚治虫
200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作され、1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている。
12歳の赤塚不二夫
帰国後、貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭。
12歳になると『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、母親と一緒に出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗。