手塚治虫の名言・格言

手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治(読み同じ)、
1928年11月3日 – 1989年2月9日は、日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。
大阪帝国大学附属医学専門部を卒業、医師免許取得、のち医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。血液型A型。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画の草分け存在として活躍。
デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。

手塚治虫の名言・格言

“人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ”

“人生は一人じゃない。二人三脚で走らねばならんこともある。”

“人の命なんて、心配してもしなくても、終わる時には無情に終わるもの。”

“物語はここから始まるのだ。”

“ぼくたちは、かけがえのない地球に「同乗」している、仲間です。”

“最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。”

“僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということです。”

“後世に残る作品をなどと気張らず、百歳まで描きたい。”

“名声も財産もできてあぐらをかいてしまうと、
逆に面白くなくなるわけです。”

“人間の「善」が、常に「悪」よりも先んじてほしいものです。”

“今ここで自分が描かなければ、誰が描くんだろう。”

“三十年たって振り返りもされない建築はまずいと思うんです。
漫画だって三十年たっても読まれなけりゃ本物じゃないと思ってるんです。”

“合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになります。”

“インプットがないのに、アウトプットは出来ません。”

“漫画に必要なのは風刺と告発の精神である。”

“医者は生活の安定を約束していた。しかし、僕は画が描きたかったのだ。”

“人間は何万年も、あした生きるために今日を生きてきた。”

“時代は移り変わっても、子供たちの本質は変わらない。”

幼少期の手塚治虫

1928年11月3日、摂津国であった大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に長男として生まれた。
曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現在の東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。
父はカメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの映写機を所有、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治虫は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。
なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、手塚の家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」など、200冊を超える漫画本があったという

5歳の手塚治虫

一家は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)川面(かわも)に移った(そこは1932年に他界した祖父の屋敷であった)。戦前の寶塚(宝塚)は田園風景の中に新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場、宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる

7歳の手塚治虫

近畿方言を話せず、浮いていた存在だったため、小学校2年の時に「ガヂャボイ」というあだ名を付けられ、からかいの対象になった。しかし、幼い頃から見様見真似で描いていた漫画絵が治虫を救うことになる。小学校3年の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させる

11歳の手塚治虫

小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになった。
この時期に、同級生の石原実(大阪淀屋橋石原時計店・現社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる。手塚家の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなみ、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた

13歳の手塚治虫

大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学。時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、手塚は漫画を描いているのを軍事教練の教官に見つかり殴られるなどしている。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。

17歳の手塚治虫

戦時中の修業年限短縮により中学を4年で卒業。6月、勤労奉仕中に大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。
この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』や『どついたれ』などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。

旧制浪速高等学校を受験したものの、不合格となった。同年7月、手塚は大阪帝国大学医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもの。

手塚は焼け残った大阪の松竹座で海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという。

18歳の手塚治虫

学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った。
これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 – 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。

上京した際には漫画映画製作会社「芦田漫画製作所」(芦田巌)に出向いて採用を志願したが断られている。当初、漫画は手塚にとってアニメ-ション制作の資金を得るための手段だった。

19歳の手塚治虫

200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作され、1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている。

20歳の手塚治虫

手塚は描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった。
手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。

当初は子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。
同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれた。
このロストワールドを見て赤塚不二夫は漫画家を志すようになる。

23歳の手塚治虫

『鉄腕アトム』(1952年 – )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載する。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。
もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)

26歳の手塚治虫

『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。
雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった

30歳の手塚治虫

売れっ子漫画家が多数出現。この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちのうちの一人に過ぎなくなっていた。さらに手塚を脅やかしたのは、この時期に新らしく登場してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした。
手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたとい

31歳の手塚治虫

1959年 週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった。
同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず、しかも結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという

34歳の手塚治虫

日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。
毎週放送のアニメーション番組を実現するために試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることとなる。

テレビ放送の30分枠用に1本あたり2,000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げるという苛酷な労働状況が作られることとなった。また作品を破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればテレビアニメが普及させやすいのと、他の会社と差を付けるためだったと語る。
アニメーターの給料が安いのは手塚のせいであると雑誌で非難されることがあったが、杉井ギサブローは、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。

38歳の手塚治虫

実験漫画雑誌『COM』を創刊。先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。

この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた。

40歳の手塚治虫

1968年には青年誌『ビッグコミック』(小学館)、『プレイコミック』(秋田書店)などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった

45歳の手塚治虫

1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション(すでに1971年には経営者を退いていた)が倒産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負う。
作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している

『週刊少年チャンピオン』で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものであった。
しかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は逆に新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。

52歳の手塚治虫

1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』(週刊文春)など、青年漫画の新たな代表作を手がける
『アドルフに告ぐ』に関するインタビュー

60歳の手塚治虫

1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。
1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという。
100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。

同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。
手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。

周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。
しかし手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。

手塚治虫に関する映像