塾長の辞任。
女子英学塾の基礎を作った梅子だったが、体調を崩して塾長を辞任し鎌倉で10年の闘病生活に入る。
塾長の辞任。
女子英学塾の基礎を作った梅子だったが、体調を崩して塾長を辞任し鎌倉で10年の闘病生活に入る。
アメリカに駐在し、ハーバード大学に留学する。
アメリカでは油田や自動車産業・飛行機産業を視察し、日本との差を痛感する(対米戦の戦略に影響する)。
また、駐米海軍武官の上田良武から航空機について学ぶ。
父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示により、外務省留学生試験の存在を知る。
大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」するなど猛勉強の末、合格。
10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。
前年に成立したバイエルン・ソビエト共和国共和国軍にスパイとしてスカウトされる。
ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。
ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた
帝国美術院の初代院長に就任。