25歳のカール・マルクス

検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることなった。

編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌(ドイツ語版)』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、共同編集長に。

同年にイェーニと結婚。
親族で反対する者が多かったが、イェニーの意思は変わらなかった。
マルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主とベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている

23歳の清水次郎長

次郎長は喧嘩の果てに人を斬る(殺したと思っていたが一命はとりとめたらしい)。

殺人をした自分との縁があると家族に迷惑がかかると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。

三河方面に向かい、路銀が尽きた後は、賭場を開き博徒を集めて稼ぎを得た。放漫な生活ぶりではあったが、武術の鍛錬のため、旧備前藩士の浪人小川武一に弟子入りし、剣術だけは磨いていたという。