15歳の明治天皇(1868年)

明治時代の開始。

1月に王政復古の大号令を発し新政府を樹立する。

4月には京都で鳥羽・伏見の戦いが勃発する。

同じく4月に五箇条の御誓文(新政府の基本方針)を発布し、閏4月には政体書(新しい政治制度)を発布する。

この中で、元号を「明治」に改めて一世一元制(天皇1人につき元号1つ)を定める。
また、江戸を東京に改称。

15歳の新渡戸稲造(1877年)

札幌農学校に入学。

15歳となった稲造は当時唯一博士号を授与できる高等教育機関であった札幌農学校(現在の北海道大学)に入学する。

札幌農学校在学時に食堂に「右の者、学費を払うべし」という張り紙が貼られた時に、稲造は「俺の生き方を紙切れで決められてたまるか」と叫び、その紙を破り捨てて退学一歩手前までいったという。

在校中に札幌丘珠事件(日本史上4番目に大きな被害を出した獣害事件)が発生した際には捕らえた羆を解剖した。

卒業後は北海道庁に採用され、イナゴの異常発生の研究・対策をした。

15歳の小村寿太郎(1870年)

大学南校(東京大学の前身)に入学。

貢進生(各藩から推薦を受け大学南校に入学した学生のこと)に選ばれ大学南校に入学する。
大学南校では5人の学友とともに留学運動を起こし政府に建議書を提出する。

そして、第1回文部省留学生に選ばれアメリカへの留学を果たす。

15歳の三浦知良

中学時代の進路指導の紙の志望高校を書く欄に「第一希望 ブラジル」と書いたというカズは、静岡学園に進学。
しかし1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずして8カ月で中退、ブラジルに単身渡航、CAジュベントスへ留学。

中退してブラジルに行くと言った時に、当時の高校の監督から「100%とは言わないが、99%無理だ」と言われた時「1% あるんですね? じゃあその1% を信じます。」と言ったという。

その後ブラジル中を渡り歩くことになる。当時のカズは身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるようなものはなく、指導者達はカズの「ブラジルでプロになる」という夢を無理だと思っていたという。1984年の秋頃、ジュベントスからキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。

15歳の安室奈美恵

アクターズ内で結成されたダンスグループ“SUPER MONKEY’S”のメンバーに選出され、1992年より芸能活動を開始。同年9月に同グループは東芝EMIよりメジャーデビューし、自身はセンターボーカルを担当する。各メディアで積極的にプロモーションを行うが、デビュー当初はヒット作には恵まれなかった。

15歳の田中角栄

二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。
小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という

15歳の中村俊輔

1991年4月、横浜市立深谷中学校に入学。50倍のセレクションに合格し、日産(横浜マリノス)のジュニアユースに所属。2度の全国制覇を経験するも、3年生時は10番を背負いながら控え選手だった。そして体格を理由にユースへの昇格を逃し、挫折を味わう。その後、1994年に神奈川県のサッカー強豪校、桐光学園へ進学し、サッカー部に入部。

ユース時代を語る俊介

 

15歳の赤塚不二夫

父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。

15歳のトーマス・エジソン

15歳の時に、働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになったのを助けた事があった。エジソンはそのお礼として、駅長から電信の技術を教えてもらい、後に彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。

15歳のカール・マルクス

1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、学生が一人逮捕された。ついで1834年1月には父ハインリヒも議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止された。さらにギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分された。
マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。

15歳の清水次郎長

1834 年、山本の家に戻った。養母のへそくり450両を盗み、江戸を目指す。次郎八が追ってを出し、捕まえるが次郎長は300両しかもっていなかった。その100両について何も答えないところをみて、次郎八は次郎長を放逐した。

次郎長はどうやら捕まることをみこして、100両強を隠していただようだ。その金を持って服を新調し、浜松の米相場を貼り、巨利を得た。

その巨利をもって清水に凱旋し、100両と玄米50石を次郎八に渡し、勘当も解かれた。

養父の次郎八は1835年に死去。次郎長は甲田屋の主人となる。

次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返している。

15歳のアインシュタイン

父親が事業に失敗したために一家はイタリアのミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残されることになる。しかし、規則ずくめで軍国主義的な校風に反逆して、家を追ってイタリアへやってきた。