幼少期のアインシュタイン

1879年ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市にて生まれる。
1880年から1894年の間、ドイツ南部のミュンヘンに居住した。
アインシュタインは、5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。

12歳のアインシュタイン

叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じ頃、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知り、同時に物理学に関心を示すようになったという。

15歳のアインシュタイン

父親が事業に失敗したために一家はイタリアのミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残されることになる。しかし、規則ずくめで軍国主義的な校風に反逆して、家を追ってイタリアへやってきた。

16歳のアインシュタイン

スイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験するも失敗。しかし数学と物理の点数が最高点だったがため、アーラウのギムナジウム(ドイツ語版)に通うことを条件に、翌年度の入学資格を得られることになった。
アーラウの学校の校風はある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。
この時期に兵役義務を逃れるためにドイツ国籍を放棄している。これにより、以後スイス国籍を取得するまで無国籍となった。

ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これが後の相対性理論を生み出す切っ掛けになったといわれている。

18歳のアインシュタイン

チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可される。
大学では物理学を専攻し、自由な気風と数人の学友、そしてミレーバ・マリッチという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は女性に門戸を開いていた当時の数少ない大学の一つであった。アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとっている。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ。

22歳のアインシュタイン

チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー(英語版)と不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得つつ、論文の執筆に取り組んだ。

24歳のアインシュタイン

友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベルンの、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。

この頃、「アカデミー・オリンピア」を設立した。同じ頃、父親ヘルマンが死去する。

ミラノで埋葬を済ませると、再びチューリッヒに戻り、間もなくしてベルンに移った。

27歳のアインシュタイン

博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。バスの乗車中にベルンの時計台の針が不動に見えることから着想した無名の特許局員が提唱した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

29歳のアインシュタイン

有名な式E=mc²を発表している。この年には、箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができないという、後の一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案する。アインシュタインはこれを、生涯最良の名案であると述べている。

43歳のアインシュタイン

ノーベル賞受賞
受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらす様な研究と言えるのかと言えば疑問」との声、更には「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルト或は、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。
この年には日本にもたちよっている。

50歳のアインシュタイン

ベルリン郊外、カプート(ドイツ語版)という町に別荘を建てる。1932年、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。

53歳のアインシュタイン

アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をナチスが強制的に家宅捜索している。その後、ナチスはアインシュタインを国家反逆者とした。

59歳のアインシュタイン

当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容だった。

65歳のアインシュタイン

広島市への原子爆弾投下報道に衝撃を受ける。9月2日に第二次世界大戦終結。アメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説する(ちなみに、ある日本人の記者が後にアインシュタインを訪ねた際、彼は記者に「敗戦国である日本には大変深く同情する。しかし戦勝国も暗い道を歩いている」と述べたことがあるという)

72歳のアインシュタイン

イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退している。しかし、自分がユダヤ人であることを決して忘れてはおらず、著作権をヘブライ大学に送っている。