幼少期の土方歳三

現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3ヶ月前の2月5日に結核で亡くなっている。
幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたという

6歳の土方歳三

母と死別。長兄の為次郎は失明していたため、次兄の喜六と、その妻・なかによって養育された。
少年期の歳三は、村では顔に似合わず「バラガキ」(触ると痛いイバラのような乱暴な少年)と呼ばれた。また、生家には、歳三が少年の頃に「武士になりたい。武士になったらこの竹で矢を作る」と言って植えたという竹がある。

25歳の土方歳三

天然理心流に正式入門

天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派の クセが取れなかったようである。しかし、多様なバックボーンを備えていたためか、路上での実戦では滅法強かったと言われている。斬り合いの時、足下の砂を 相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したり等、剣術修行の型にとらわれず縦横無尽に戦闘をしていたという。

29歳の土方歳三

八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。
その後、新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

30歳の土方歳三

池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。

34歳の土方歳三

鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃の前に敗北する。
その後、江戸城に登城した土方歳三は、戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感.
新政府軍に包囲された近藤が投降。このとき歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたとも、最後まで投降に反対したとも言われる。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、近藤は板橋刑場(現JR板橋駅前に墓所有り)にて斬首された。

35歳の土方歳三

戦いながら蝦夷地(北海道)に逃れる。
榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わる。
5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。

鬼のように戦い、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。