9歳のアルフレッド・ノーベル

1837年、父が単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は一家をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。
裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。

24歳のカール・マルクス

左派が協力して創刊した新聞『ライン新聞』に寄稿するようになる。
同紙を実質的に運営していた社会主義者のモーゼス・ヘスはマルクスを高く評価し、「まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。」と絶賛。
10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた。編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した。

一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり、知事の方針に公然と反対するなどした。