32歳の森鴎外

日清戦争勃発により軍医として従軍。11月に大連に上陸。
翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。

53歳の伊藤博文

2度目の首相を務めていた時、日清戦争がおこる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光と共に全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。

59歳の福澤諭吉

1894年 日清戦争。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。
日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。この頃までには慶応義塾は大学部を設けて総生徒数千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた

15歳のアインシュタイン

父親が事業に失敗したために一家はイタリアのミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残されることになる。しかし、規則ずくめで軍国主義的な校風に反逆して、家を追ってイタリアへやってきた。