1910年(明治43年) 熊本県立玉名中学(現熊本県立玉名高校)から東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した。
当時の東京高等師範学校の校長は嘉納治五郎であった。四三は嘉納校長から薫陶を受けることになる。
1910年(明治43年) 熊本県立玉名中学(現熊本県立玉名高校)から東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した。
当時の東京高等師範学校の校長は嘉納治五郎であった。四三は嘉納校長から薫陶を受けることになる。
1890年以降はずっと自宅にいることが多くなった。1910年8月13日バーンレーンの自宅で静かに息を引き取った(享年90)
《ヴォラールの肖像》
《カーン・ワイラーの肖像》
大阪に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し大阪電灯(現:関西電力)に入社。7年間勤務する。
翌年には内線係見習工から最年少で工事担当者に昇格。
1910(明治43)3月『青年』発表(~1911年8月)。慶應義塾大学の文学科顧問に就任
政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。
特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号がジュネーヴ大学より授与されている。