幼少期の新渡戸稲造

9月11日に陸奥国岩手郡盛岡城下(現・岩手県盛岡市)で、父・新渡戸十次郎(盛岡藩士)の3男として生まれる。

父は盛岡藩主・南部利剛の用心(主君の命を家中に伝達し庶務を司る)を務めていた。

幼少期には藩校の作人館に通い学問や武芸を学ぶほか、新渡戸家と親しい医者から英語を学ぶ。

幼少の頃に、新渡戸家に来た明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に励むべし」と声をかけられたことで、農学を志すようになった。

32歳の大久保利通(1862年)

島津久光の側近として京都の政局に介入する。

この時に公家の岩倉具視に会い公武合体を目指すようになる。

主な動きとしては、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の将軍後見職(将軍の補佐役)ならびに福井藩主・松平慶永の政事総裁職(大老に相当する役職)への就任を進めた。

生麦事件が起こる。

53歳のエイブラハム・リンカーン(1862年)

1862年2月16日、ドネルソン要塞の戦いで、北軍のグラント将軍が初の大勝利を得る。その後一進一退が続く
7月22日、奴隷解放宣言の最初の草案を閣議に提出
9月17日、アンティータムの戦いで、北軍が南軍リー将軍に勝利
9月22日、奴隷解放予備宣言を布告

23歳の高杉晋作

藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。

「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使を刺殺しようと同志と相談した。しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。

12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。

15歳のトーマス・エジソン

15歳の時に、働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになったのを助けた事があった。エジソンはそのお礼として、駅長から電信の技術を教えてもらい、後に彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。

21歳の伊藤博文

公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動

27歳の福澤諭吉

文久遣欧使節に翻訳方として同行する、欧州帝国主義を目の当たりにし衝撃を受ける。
ロンドンでは万国博覧会を視察し、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。

40歳の勝海舟

坂本龍馬と出会う

神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、海舟は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。この時の塾頭が坂本龍馬。
この後神戸海軍操練所も設立。
海舟は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。
海舟はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという。 海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期。この時の西郷との出会いが後の無血開城につながったのかもしれない。

28歳の坂本龍馬

1862年

脱藩をする。

当時、それは自分の家族にも危険がおよぶかもしれない危険な行為だった。

この年に寺田屋事件がおきる

勝海舟に面会し、弟子入りをする。
この出会いが時代が動く大きなきっかけとなる。