32歳の榎本武揚(1868年)

戊辰戦争の勃発。

武揚は幕府方として参戦し、大坂城から江戸城への撤退を指揮した。
徳川慶喜が新政府軍への恭順を図る中、武揚は徹底抗戦を主張した。
しかし、江戸城の無血開城(4月)や奥羽越列藩同盟の崩壊などもあり、旧幕府軍は次第に劣勢になっていく。

武揚ならびに旧幕府軍は北上し、蝦夷・箱館の五稜郭に籠城し新政府軍を迎え撃つ(箱館戦争)も、1869年6月27日に降伏した。
※箱館戦争では新撰組副長・土方歳三も戦死している

32歳の大久保利通(1862年)

島津久光の側近として京都の政局に介入する。

この時に公家の岩倉具視に会い公武合体を目指すようになる。

主な動きとしては、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の将軍後見職(将軍の補佐役)ならびに福井藩主・松平慶永の政事総裁職(大老に相当する役職)への就任を進めた。

生麦事件が起こる。

32歳の黒田官兵衛(1578年)

有岡城主で織田家家臣であった荒木村重が謀反を起こす。

この時、官兵衛は旧知の仲であった荒木村重を説得しに行くが幽閉される。
幽閉は約1年続き、この間に皮膚病を煩い片脚が曲がってしまう。

一方、黒田官兵衛が戻ってこないことに織田信長は寝返ったと思い、人質だった松寿丸の処刑を命じる。
しかし、秀吉の参謀であった竹中半兵衛が偽の首を送るように秀吉に進言し、松寿丸を助けた。

32歳のウォーレン・バフェット

1950年代末までに、バフェットは7つの会社を立ち上げ、1962年、ミリオネアになった。

バフェットは、自身が所有するすべての会社を合併し、バークシャー・ハサウェイ(Berkshire Hathaway)という繊維会社に投資した。株を買い始め、最終的に経営権を握った。

1960年代後半、バフェットはバークシャー・ハサウェイを繊維業から保険業へ転換させていった。

32歳の安室奈美恵

6月には台湾公演、7月には上海で自身初となる中国公演を開催し、海外公演を初映像化したライブDVD『namie amuro BEST FICTION TOUR 2008-2009』が初動売上記録で女性アーティスト歴代1位となり9年ぶりに記録を更新。

12月にはアルバム『PAST < FUTURE』をリリース。10代・20代・30代の各年代でのオリジナルアルバム首位獲得はソロアーティスト初の記録となり、アジア5ヶ国・地域での首位獲得は日本人女性アーティスト史上初の快挙となった。 https://www.youtube.com/watch?v=7prEbLsc_r4&index=38&list=PLFF694F8807AF5302

32歳の田中角栄

長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化の要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任。
田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。
それまで弱かった三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。

32歳の桜井和寿

君が好き

Any

HERO

リリース

7月小脳梗塞により入院加療中と報道され、約半年の間ライブツアーを含めた音楽活動を全て休止。
12月21日、病気療養から復帰、音楽活動を再開し、一夜限りのライブ「TOUR 2002 DEAR WONDERFUL WORLD IT’S A WONDERFUL WORLD ON DEC 21」を成功させる。

32歳の赤塚不二夫

『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。

テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。

32歳のタモリ

1977年には、赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体であり、まもなく、坂田明、内藤陳、小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ、柄本明、所ジョージ、アルフィー、劇団東京ヴォードヴィルショーの一部メンバーも参加。ビートたけしも参加しようとしていたが、たけしはタモリの芸風を嫌ってすぐに脱退したという。
面白グループ旗揚げ公演として、渋谷公会堂で「輝け!第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。
1978年にはテレビ出演も増えはじめる。
https://www.youtube.com/watch?v=a4LSFNd9SEk

32歳の森鴎外

日清戦争勃発により軍医として従軍。11月に大連に上陸。
翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。

32歳の岩崎弥太郎

後藤象二郎に藩の商務組織、土佐商会の主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。グラバー、ウォルシュ兄弟などの世界の商人を相手に経済官僚として奮戦した。

坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。龍馬の「世界の海援隊を目指す」考え方に共感する。しかし二人が出会い、わずか数ヵ月で龍馬は暗殺されてしまう。弥太郎は龍馬の遺志を受け継ぎ、世界の海援隊を実現させることを決断。そして弥太郎は解散した海援隊の人間を土佐商会で引き取る。

32歳の福澤諭吉

横浜から再渡米。
帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。この年の末(12月9日)、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、諭吉は新政府から出仕を求められたが辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった

32歳の坂本龍馬

1866年

龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)
桂に求められて盟約書の裏書を行う。
負傷治療のために妻お龍と共に鹿児島を旅行する。
第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。

将軍・家茂が死去し、慶喜が将軍になる。