23歳の金栗四三(1914年)

第一次世界大戦ぼっ発により、1916年に開催が予定されていた第6回オリンピック大会(ベルリン)は中止となった。四三は、選手としてのピーク年齢の時期に無念の事態となった。

23歳の陸奥宗光(1867年)

海援隊に入る
※坂本龍馬が結成した私設海軍。薩摩藩からの援助も受けた。

坂本龍馬から「刀を二本も差さずとも、食っていけるは、俺と陸奥」と評される。

11月に坂本龍馬が暗殺されると(近江屋事件)、宗光は龍馬暗殺の黒幕と疑っていた三浦休太郎(紀州藩士)を海援隊の同士とともに襲撃する(天満屋事件)。
※この事件では新撰組とも戦った

23歳の東郷平八郎(1871年)

イギリスへ留学する。

海軍士官として官費で留学する。

イギリスではゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーや商船学校ウースター協会で海軍技術を学んだ。

また、国際法についても学んだ。

留学中に、西南戦争(1877年)で西郷隆盛が死んだのを聞くと「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と西郷の死を悼んだ

23歳の黒田官兵衛(1569年)

青山・土器山の戦いが勃発。

龍野城主・赤松政秀が3000の兵で姫路城へ侵攻してくる。
この戦いで黒田軍は300程度しかいなかったが、英賀城城主・三木通秋の援軍もあり、なんとか赤松軍を撃退する。
しかし、重臣の井手友氏(叔父)・母里小兵衛・母里武兵衛(官兵衛の幼なじみ)が戦死した。

23歳の水木しげる

8月25日、部隊長から「ポツダム宣言受諾」についての訓示を受ける。

軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だったという。

カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。

砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意した。

23歳の高杉晋作

藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。

「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使を刺殺しようと同志と相談した。しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。

12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。

23歳のアラン・チューリング

中心極限定理を証明した論文が認められ、キングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。ただし、中心極限定理は1922年にJ・W・リンデベルグ(英語版)が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった

23歳の松下幸之助

大阪電灯(株)を退社。

自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。

新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。

その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。

23歳の三浦知良

サントスFCへ4年振りに再移籍した。もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたため、誘いを掛けてきた他のチームの話もあったがそれを断っての移籍という。

ブラジルで活躍すれば、いずれは日本へ戻ると公言していたカズは、1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本のW杯出場に貢献するためにブラジルに残ることよりも日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍。

23歳のロバート・キャパ

フランスの写真週刊誌『ヴュ』の1936年9月23日発刊の号に彼らの写真が採用され、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルが付された。

キャパの写真「死の瞬間の人民戦線兵士」

 

さらに翌年その写真が、大きな発行部数を誇り影響力の大きかったアメリカのグラフ誌『LIFE』に掲載された際に撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記されていたことで、この名が一躍知られることとなった。「崩れ落ちる兵士」と呼ばれている写真である。この写真を公表したころから、タローらの「そそのかし」の通りに、フリードマンは「ロバート・キャパ」という名前を用いるようになったとされる

23歳のオスカー・シンドラー

軍の勤務を終えた後、シンドラーはブリュンの電機会社に復職したが、この会社は1931年に倒産してしまった。シンドラーはこの後一年ほど失業者になった。シンドラーの父の農業機械工場も倒産していたため援助を受けられず、結局はエミーリエの父に援助してもらって生活を耐え凌いだ。シンドラーは養鶏場を買い、またプラハの銀行の代理人の仕事に就き、ブリュンの商人に国有財産を売却する仕事に携わる。

23歳の桜井和寿

ブレイクするきっかけとなった、4thシングル「CROSS ROAD」をリリース

この頃についての発言

「『今はミスターチルドレンが好き』なんつってる人がいても、
どうせ飽きるんだったら、新しいとこ(今までと違う年代のリスナー)を目がけてやった方がいいじゃんっていうのは思いますよね」

「やっぱり消費されて行くのはしょうがないし、でも誰かの気持ちの中に残るだろうっていう風には信じてやってますけど」

23歳の手塚治虫

『鉄腕アトム』(1952年 – )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載する。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。
もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)

23歳の田臥勇太

トヨタ自動車アルバルクを退団し、同年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。同年9月、NBAのデンバー・ナゲッツと契約し、プレシーズン戦3試合に出場したが開幕ロースターには残れず解雇された。ナゲッツのチームメイトには田臥よりも身長の低い165cmのアール・ボイキンスがいたが、ポジションを奪うことはできなかった。同年11月、ABA(アメリカ・独立プロリーグ)のロングビーチ・ジャム・アルビレックスと契約した。
2003年のTVでの特集

23歳の清水次郎長

次郎長は喧嘩の果てに人を斬る(殺したと思っていたが一命はとりとめたらしい)。

殺人をした自分との縁があると家族に迷惑がかかると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。

三河方面に向かい、路銀が尽きた後は、賭場を開き博徒を集めて稼ぎを得た。放漫な生活ぶりではあったが、武術の鍛錬のため、旧備前藩士の浪人小川武一に弟子入りし、剣術だけは磨いていたという。

23歳の伊藤博文

米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国し6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。

伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。

長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。