50歳の田畑政治(1948年)

日本水泳連盟の会長に就任。

この年に開催されるロンドン五輪の出場を目指していたが、戦後すぐということから日本はドイツとともに参加を断られる。この状況に対して、田畑は日本代表の実力を見せるべくロンドン五輪の開催日時に合わせ日本選手権を開催した。
この思い切った開催の影響もあり、翌年には国際水泳連盟に日本を復帰させた。

この年に朝日新聞の代表取締役にも就任(1952年には同社を退社)

36歳のアラン・チューリング

マンチェスター大学数学科の助教授に招かれる。1949年、マンチェスター大学のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。

当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。

25歳の司馬遼太郎

1948年産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる

30歳の田中角栄

第2次吉田内閣が発足。新内閣で田中は法務政務次官に就任。

まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。
田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。

20歳の手塚治虫

手塚は描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった。
手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。

当初は子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。
同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれた。
このロストワールドを見て赤塚不二夫は漫画家を志すようになる。