11歳の明治天皇(1864年)

禁門の変が起こる。

尊皇攘夷派の長州藩と公武合体派の薩摩藩・会津藩の間で起こった武力衝突。
前年に起こった八月十八日の政変によって京都から追放された長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職であった松平容保を排除するために京都で市街戦を展開する。

この事件の後に、宮中に300人ほどの不審者侵入するという事件が発生し、睦仁はパニックに陥り失神したと言われている。

幼少期の津田梅子

12月31日に江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で生まれる。

父は旧幕臣の津田仙(下総佐倉藩出身で士族)。

幼少の頃は父の影響(幕府の崩壊で職を無くす)で向島で暮らすようになる。
向島では父の農園を手伝う他、習い事にも通った。

28歳の榎本武揚(1864年)

戦争を観戦武官として見学。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセン・オーストリア連合vsデンマーク王国)にプロイセン・オーストリア軍の観戦武官として見学する。
この後にはデンマーク軍の戦線も見学する。

また、フランスが幕府に対して軍艦の建造・購入を提案してきた際には、フランス海軍と交渉した。

55歳のエイブラハム・リンカーン(1864年)

1864年3月9日、ユリシーズ・S・グラント将軍を連邦軍総司令官に任命。これにより3年に及ぶ内戦を決定的勝利の方向に導くことができた
9月2日、北軍、南部の中心地アトランタを占領し、北軍の勝利はもはや動かしがたいものに。
11月8日、大統領選挙の結果、圧倒的多数の支持を受けて再選

25歳の高杉晋作

京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放される。1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。
桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、
脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害した。

8月、4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。

これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。

10月、下関で大敗した長州藩では保守派が台頭する。晋作は福岡に逃れる。

31歳のアルフレッド・ノーベル

ニトログリセリン工場爆発。末弟エミールら5人が死亡。
この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。

同年、父が脳卒中で倒れる。

17歳のトーマス・エジソン

カナダの駅で夜間電信係として働いていたが、「何事もなければ、一晩中1時間おきに勤務に就いていることを示す信号を送るだけ」という退屈な仕事に飽きてしまい、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を発明した。電信を機械に任せて自分は寝ていたところ、それまでと違って全く誤差なく正確に1時間おきに電信が届くようになった事を不思議に思い様子を見に来た上司に「お前が寝ていたら定時に連絡する意味がないだろう」と怒られた。これがエジソンの最初の発明

30歳の土方歳三

池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。

23歳の伊藤博文

米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国し6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。

伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。

長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。