江戸時代から昭和時代に活躍した教育者。
日本における女子教育の先駆者と評される。
「環境より学ぶ意志があればいい。」
「何かを始めることは易しいが、それを継続することはなお難しい。成功させることはなお難しい。」
「広く、深く、身を捧げて愛することを学んでください。そうすれば人生を誤ることはないでしょう。」
「人生の導き手である良い書物は、その書物のなかで語る偉人たちの言葉は、求めれば皆さんのものとなるでしょう。」
江戸時代から昭和時代に活躍した教育者。
日本における女子教育の先駆者と評される。
「環境より学ぶ意志があればいい。」
「何かを始めることは易しいが、それを継続することはなお難しい。成功させることはなお難しい。」
「広く、深く、身を捧げて愛することを学んでください。そうすれば人生を誤ることはないでしょう。」
「人生の導き手である良い書物は、その書物のなかで語る偉人たちの言葉は、求めれば皆さんのものとなるでしょう。」
12月31日に江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で生まれる。
父は旧幕臣の津田仙(下総佐倉藩出身で士族)。
幼少の頃は父の影響(幕府の崩壊で職を無くす)で向島で暮らすようになる。
向島では父の農園を手伝う他、習い事にも通った。
6歳の時に渡米する。
父の津田仙が開拓使次官・黒田清隆と知り合いになると、黒田清隆が女子教育に関心を持っていたことから、娘の梅子を女子留学生として渡米させる。
津田梅子は岩倉具視をリーダーとする岩倉使節団とともに渡米する。
※梅子の他に4人の女学生が渡った(梅子は最年少)
10年ほどアメリカに住み、ラテン語やフランス語を学ぶほか、自然科学や心理学も学んだ。
※学校も卒業する
桃夭女塾の英語教師となる。
アメリカから帰ってきた梅子だったが、当時の日本は女性が働ける場所が無かった。
また、梅子自身も日本語が通訳なしでは話せなくなっていた。
一方、伊藤博文から招待され、伊藤への英語指導ならびに通訳のために伊藤家に住むことになる。
また、私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されて、梅子はこの塾の英語教師となる。
伊藤博文の推挙で、学習院女学部から独立した華族女学校で英語教師となる。
女子英学塾の開校。
※後の津田塾大学
アメリカから帰ってきた津田梅子は明治女学院や女子高等師範学校に勤めるほか、女性が学校へいけるように支援する。
そして女子英学塾を開校すると、行儀作法の女子教育(花嫁修業など)ではなく自由な授業を行った。
また、資金援助が少なかったことから経営は苦しかったものの社会法人とした。
塾長の辞任。
女子英学塾の基礎を作った梅子だったが、体調を崩して塾長を辞任し鎌倉で10年の闘病生活に入る。
脳出血により64歳で死去。
墓所は東京都小平市の津田塾大学内にある。