西南戦争が勃発。
この時に、陸奥は西郷隆盛に呼応し政府転覆を謀った土佐立志社の林有造らと連絡を取っていたことが発覚し、禁固5年の刑を受けて山形で投獄される。
投獄中には妻・亮子に手紙を送るほか、英国の哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込む。
西南戦争が勃発。
この時に、陸奥は西郷隆盛に呼応し政府転覆を謀った土佐立志社の林有造らと連絡を取っていたことが発覚し、禁固5年の刑を受けて山形で投獄される。
投獄中には妻・亮子に手紙を送るほか、英国の哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込む。
札幌農学校に入学。
15歳となった稲造は当時唯一博士号を授与できる高等教育機関であった札幌農学校(現在の北海道大学)に入学する。
札幌農学校在学時に食堂に「右の者、学費を払うべし」という張り紙が貼られた時に、稲造は「俺の生き方を紙切れで決められてたまるか」と叫び、その紙を破り捨てて退学一歩手前までいったという。
在校中に札幌丘珠事件(日本史上4番目に大きな被害を出した獣害事件)が発生した際には捕らえた羆を解剖した。
卒業後は北海道庁に採用され、イナゴの異常発生の研究・対策をした。
かつて盟友であった西郷隆盛が九州で反乱を起こす(西南戦争)。
利通は西郷隆盛のもとへ行き説得しようとしたが、周りからの反対で叶わなかった。
結局、西郷隆盛は自害し、政府軍が勝利した。
利通はこの時、西郷隆盛の死を悔やみ「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言った。
武士の不満が高まるなか西南戦争が勃発。破れて自決。
遺体は山縣有朋の検分の後に手厚く葬られた。
1877年に蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。