江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。
「維新の三傑」の1人(他に西郷隆盛と木戸孝允)。
「彼は彼、我は我でいこうよ。」
「目的を達成する為には、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいたら、物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む。」
「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」
江戸時代から明治時代に活躍した武士、政治家。
「維新の三傑」の1人(他に西郷隆盛と木戸孝允)。
「彼は彼、我は我でいこうよ。」
「目的を達成する為には、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいたら、物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む。」
「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」
8月10日に薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)で生まれる。
父は薩摩藩士・大久保利世。家格は下級武士。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
幼少期は下加治屋町に移り住み、藩校では西郷隆盛らと共に学問を学んだ。
胃が弱く武術はできなかったが、学問では読書や討論を得意とし藩校の中では抜きん出ていた。
16歳の時に薩摩藩記録所の書役助(かきやくすけ)として働き、下級武士ながら藩内で頭角を現す。
20歳の時に薩摩藩でお家騒動が起こる(お由羅騒動)。
※薩摩藩主を巡って島津斉彬と島津久光の両方の家臣が対立
このお家騒動に父とともに巻き込まれ謹慎処分に処される。
謹慎中の生活は苦しく借金しながら生活をした。
この時の借金依頼の書類が現在も残っている。
西郷隆盛が支援したとも言われている。
島津斉彬が薩摩藩主になると謹慎を解かれる。
記録所に復帰をし、後に御蔵役につく。
西郷隆盛と共に徒目付(かちめつけ)につき、精忠組としても活動する。
※徒目付とは城内の警備や役人の監察をする職
※精忠組とは西郷隆盛を盟主とした組織。
大老・井伊直弼を暗殺する計画を立てるが薩摩藩主によって抑制される
島津斉彬が死去し藩主が島津茂久になると、茂久の父・島津久光(当時は忠教)が実権を握る。
西郷隆盛が失脚。
島津久光に初めて会う。
久光へ近づくために、久光が好きだった囲碁を習ったと言われている。
勘定方小頭格につくと、翌年には御小納戸役につき藩政に関わるようになる。
※小納戸とは殿様の身の回りの世話をする者
島津久光の側近として京都の政局に介入する。
この時に公家の岩倉具視に会い公武合体を目指すようになる。
主な動きとしては、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の将軍後見職(将軍の補佐役)ならびに福井藩主・松平慶永の政事総裁職(大老に相当する役職)への就任を進めた。
生麦事件が起こる。
薩英戦争の勃発。
大久保は薩英戦争の作戦指揮にあたっていた。
「利通」に改名する。
第二次長州征伐が起きた際には、西郷隆盛とともに薩摩藩の出兵を拒否する。
5月に四候会議の開催を西郷隆盛と計画する。
※四候は島津久光・松平慶永(前越前藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)・山内容堂(前土佐藩主)
この会議は徳川慶喜によって頓挫され、利通は公武合体路線から武力倒幕路線へ舵を切る。
この時に土佐藩の後藤象二郎や浪人の坂本龍馬らと将軍職の廃止・新政府の樹立を目指す盟約を結んだが、考えの違いから短い間で破綻となった。
11月に徳川慶喜が大政奉還を果たすと、利通らの武力倒幕は中止となったが、岩倉具視らとともに王政復古の大号令を実行した。
小御所会議では徳川慶喜の辞官納地(官職を辞し土地を天皇に返す)を主張した。
参議に就任する。
中央政権体勢確立のために版籍奉還や廃藩置県を行う。
大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し、岩倉使節団の副使として米国と欧州を外遊する。
征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助と対立したため、西郷ら征韓派を失脚させる(明治六年政変)。
「富国強兵」をスローガンとし殖産興業政策を推進。
内務省の設置(自ら初代内務卿となる)、学制・地租改正・徴兵制の実施、官営工場の開設(富岡製糸場など)、屯田兵の派遣など
佐賀の乱が起こると自ら兵を送り瓦解させる。
台湾出兵が行われると、戦後処理のため全権弁理大臣として清国へ行く。
清との間に互換条款と互換憑単を締結する。
かつて盟友であった西郷隆盛が九州で反乱を起こす(西南戦争)。
利通は西郷隆盛のもとへ行き説得しようとしたが、周りからの反対で叶わなかった。
結局、西郷隆盛は自害し、政府軍が勝利した。
利通はこの時、西郷隆盛の死を悔やみ「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言った。
馬車で皇居へ向かう途中に紀尾井坂で暗殺される。
暗殺された際に、西郷隆盛の手紙が2通あったといわれている。