天皇として国内の対立を調停する。
征韓論論争の際には勅旨(天皇の命令書)を出して朝鮮への派遣を中止させる。
自由民権運動の際には立憲政体の詔を発し立憲体制への改革を進める。
天皇として国内の対立を調停する。
征韓論論争の際には勅旨(天皇の命令書)を出して朝鮮への派遣を中止させる。
自由民権運動の際には立憲政体の詔を発し立憲体制への改革を進める。
前年に妻の蓮子な亡くなったため、後妻として亮子と結婚する。
※亮子は日本赤十字社の社員にもなる
※宗光が投獄された際には、子育てをしながら投獄中の夫を支える
5月に大蔵省事務総裁に就任し、10月には参議兼大蔵卿(大蔵大臣)に就任する。
征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助と対立したため、西郷ら征韓派を失脚させる(明治六年政変)。
「富国強兵」をスローガンとし殖産興業政策を推進。
内務省の設置(自ら初代内務卿となる)、学制・地租改正・徴兵制の実施、官営工場の開設(富岡製糸場など)、屯田兵の派遣など
征韓論を唱えるが、日本へ帰国した岩倉使節団の大久保利通らに意見を退けられたため、明治政府を辞職、故郷の鹿児島へ帰る。
同調した政治家・軍人・官僚600名余りが大量辞任(明治六年の政変)。
大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。
渋沢栄一は、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。
九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
慶應義塾と東京英語学校(現東大教養学部)は徴兵令免除の特別待遇を受ける。
文部卿の木戸孝允と会談。木戸と協力し「学制」を制定した(日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令)。