孫正義の名言・格言

孫正義 1957年8月11日生まれ。
ソフトバンクグループの創業者。

孫正義の名言・格言
「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ」
「本当の勇気は周到な用意の元に生まれる。用意の無い勇気を蛮勇という」
「我々が推進役として、世界中に情報革命を起こすのは何のためか。人々を幸せにするためです。「何のために」を忘れ去ってしまったのでは意味がない。」
「革命期には、命を投げ出してでも新しいパラダイムを切り拓いていかなければ、先頭を切るのは難しい。」
「戦略というのは「総花的になんでもやります」ということでは人数の多いところ、カネのあるところに敵わない。一点集中するしかあと追いでは勝てない。」
「自分一人のものが夢。みんなで共有できる夢が志だ。」
「事業は30年しか続かないが組織は300年続く。」
「坂道は、いかに苦しくても登っている時が一番楽しい。」
「事を起こすのが起業家、事を成すのが事業家、事を治めるのが経営者。」

17歳の孫正義(1974年)

高校入学後、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を愛読。渡米を決意。1974年に久留米大学附設高等学校を中退し、渡米。米国ホーリー・ネームズ・カレッジの英語学校 (ESL) に入学。

米国サンフランシスコセラモンテ高等学校の2年生に編入。

入学後すぐに教科書の内容は全て解ると校長に掛け合い、カリフォルニア州の大学試験検定を受けることに。
しかし試験は英語で出題される。そこで孫正義は「日本語ならばこの問題は解ける」と、辞書の貸し出しと時間の延長を申し出、州知事にまで電話で抗議。そして辞書の持ち込みと時間延長という特例をのませ見事合格したという。
翌1975年に米国ホーリー・ネームズ・カレッジに入学

22歳の孫正義(1979年)

シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。
日本で、流行していた「スペースインベーダー」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大きな利益を得た。

またこの時期に結婚をしている。

39歳の孫正義(1996年)

米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。

同年、衛星放送プラットフォームの運営会社としてジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)をルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資により設立、マードックが会長、自らは社長に就任。翌年、パーフェクTV!を運営する日本デジタル放送サービス(現スカパーJSAT)と合併、スカイパーフェクTV!(スカパー!)として放送を開始。

42歳の孫正義(1999年)

証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資しナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。翌2000年には大阪証券取引所とナスダック・ジャパンプランニング株式会社にてナスダック・ジャパン市場を開始。
(02年にはヘラクレスとして改組された。)

54歳の孫正義(2011年)

東日本大震災が発生すると、義援金として個人で100億円および2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明。さらに福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立。『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立。

59歳の孫正義(2016年)

イギリスの半導体設計企業であるARMホールディングスを約3.3兆円(約240億ポンド)で買収

ドナルドトランプ次期米大統領と会談。
ソフトバンクが米国のテクノロジー業界に5兆7000億円の投資をすることを表明。

60歳の孫正義(2017年)

最終利益が前年度のおよそ3倍、1兆4263億円で過去最高益。日本企業で最終利益が1兆円を超えたのはソフトバンクグループで3社目。

サウジアラビア政府系の公共投資ファンドと計画していた10兆円規模の投資ファンドが発足

ウォーレン・バフェットの名言・格言

ウォーレン・エドワード・バフェット(英語: Warren Edward Buffett)

アメリカの投資家、経営者、資産家、慈善活動家。世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの筆頭株主であり、同社の会長兼CEO
「喜んで10年間株を持ち続ける気持ちがないのなら、たった10分間でも株を持とうなどと考えるべきですらない。」

「今日や明日、来月に株価が上がろうが下がろうが、私にはどうでもいい。その会社が10年、50年経っても欲しいと皆が思うものを作っているかどうかが重要だ。」

「株は単純。みんなが恐怖におののいているときに買い、陶酔状態の時に恐怖を覚えて売ればいい。」

「私は事業家であるゆえに、より良い投資を行うことができる。そして、私は投資家であるゆえに、より良い事業を行うことができる。」

「私自身は投機は成功しないと思っている。」

幼少期のウォーレン・バフェット

1930年8月30日 ネブラスカ州オマハで生まれる。
父・ハワードは証券業を営んでいた(後に共和党の下院議員を務める)。
バフェットは幼い頃からビジネスを始めた。
祖父からコーラをセットで購入し売りさばいたり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞の販売などを行った。

11歳のウォーレン・バフェット

バフェットは初めて株券を購入。
姉のドリスと共にシティ・サービスの優先株を1株38ドルで3株購入し、1株40ドルまで値を戻したところで売却したが、同社の株は長期的に上昇し続け、200ドルになった。
この経験から、バフェットは忍耐を学んだと後に述懐している。

16歳のウォーレン・バフェット

高校3年のときに友人と中古のピンボールを1台25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始めた。この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出す。その後、退役軍人にその事業を売却。

21歳のウォーレン・バフェット

ニューヨークのコロンビア大学のビジネススクールで修士号を取得。

バフェットがニューヨークに移る決断をすることに影響を与えたきっかけが2年前にあった。ウォールストリートについて書かれた有名な『賢明なる投資家(原題:The Intelligent Investor)』という本に19歳のときに出会ったのだ。ここで語られている「価値ある投資」の理念が人生を変えた、と彼は語っている。

32歳のウォーレン・バフェット

1950年代末までに、バフェットは7つの会社を立ち上げ、1962年、ミリオネアになった。

バフェットは、自身が所有するすべての会社を合併し、バークシャー・ハサウェイ(Berkshire Hathaway)という繊維会社に投資した。株を買い始め、最終的に経営権を握った。

1960年代後半、バフェットはバークシャー・ハサウェイを繊維業から保険業へ転換させていった。

53歳のウォーレン・バフェット

家具屋のネブラスカ・ファーニチュア・マートを6000万ドルで買収した。バフェットはオーナーが同社の売却を考えていることを知り、オーナーの息子と事前に下交渉をしていた。その上でバフェットは店を訪ねてオーナーの老婦人と直接交渉し、会計の監査や在庫の調査をせずに言い値に対して即払いで購入。

バフェットはバークシャーの繊維部門の再建を断念して工場を閉鎖した。優秀な生え抜きの経営陣と資本を注ぎ込んだが、最後の9年間累計で売上が5億3000万ドル、1000万ドルの赤字であった。当時すでにアメリカにおいて斜陽産業であった繊維業を再建することはできなかった。

58歳のウォーレン・バフェット

コカ・コーラ株を買い始め、最終的に発行済み株式の7%を10.2億ドル相当で購入。
バフェットがコカ・コーラに投資金額は、配当金などを加味すると27年間で約16倍に成長した。年間の利益率は約11%。

86歳のウォーレン・バフェット

バフェットは、自分自身の慈善活動の個人記録を塗り替えた。28億6000万ドル(3000億円以上)相当のバークシャー・ハサウェイ株を、ビル・メリンダ・ゲイツ財団(Bill and Melinda Gates Foundation)をはじめ、数多くの慈善団体に寄付した。彼が寄付した金額は、285億ドル(約3兆円以上)を超えている。