26歳の金栗四三(1917年)

1917年(大正6年) 独協中学に移り、マラソンや駅伝の普及に一層力を尽くすようになった。
このころ、日本初の駅伝『奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走』を企画実行した。

36歳のパブロ・ピカソ

1917年からキュビスムによる表現を一変させ、古典絵画への回帰を思わせる写実的な表現で描くようになった。

かねてより依頼されていたロシア・バレエ団の舞台装置や衣装の製作ためにイタリアのローマに滞在。そこで、バレエ団の踊り子オルガ・コクローヴァ(27歳)と知り合い、1918年に彼女と結婚

《安楽椅子のオルガ》

23歳の松下幸之助

大阪電灯(株)を退社。

自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。

新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。

その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。