杉原千畝の名言・格言

杉原千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 – 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。

杉原千畝の名言・格言

世界は大きな車輪のようなものですからね。
対立したり、あらそったりせずに、
みんなで手をつなぎあって、
まわっていかなければなりません…。

私のしたことは外交官としては、
間違ったことだったかもしれない。
しかし 私には頼ってきた何千人もの人を
見殺しにすることはできなかった。
大したことをしたわけではない。
当然のことをしただけです。

参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
http://www.chiunesugihara100.com/visa-nenpy.htm

18歳の杉原千畝

医者になることを望んだ父に受けさせられた京城医専の試験では「白紙答案を提出」して「弁当だけ食べて帰宅」。

千畝は、父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。英語の先生になるつもりだった。

19歳の杉原千畝

父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示により、外務省留学生試験の存在を知る。
大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」するなど猛勉強の末、合格。

10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。

33歳の杉原千畝

満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。
ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。

35歳の杉原千畝

杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。

千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。

杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる。

千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。

外務省大臣官房人事課勤務、情報部第一課勤務を命じられる。前妻クラウディアと別れた離婚。幸子と結婚。

39歳の杉原千畝

リトアニアの在カウナス領事館・領事代理に任命される。
カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都で、そこに最初の日本領事館を開設した。
日独伊三国同盟後もヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかった日本は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思い、日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することがその役割であった。

40歳の杉原千畝

7月領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民等に同情し、本省の訓命に反して通過ビザを発給。
一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。
9月5日、カウナス駅より国際列車で退去。プラハの日本総領事代理として赴任。

68歳の杉原千畝

カウナスの「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ氏と東京のイスラエル大使館で28年振りに再会。

カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、杉原夫人の「手をとり固く握って涙を流して喜んだ」といわれている。

69歳の杉原千畝

イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。

86歳の杉原千畝

7月31日鎌倉市にて永眠。
千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列。

彼を外交官から追放した日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは2000年10月10日になってのことだった。

正力松太郎の名言・格言

正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。

正力松太郎の名言・格言

多くの人は人の成功を嫉み、反感を持ち、誤解する。嫉みや反感や誤解されるのが嫌だったら、何もしないで役に立たぬ人間になるだけだ。

いまだからやるのだ。

最も重要なことは、自分一人で決めることだ。

僕はよく「愚痴をこぼすな、くよくよ後悔するな」と言っている。第一に時間の空費だし、体も弱る。それに周囲を暗くするから、これほど馬鹿なことはないと思っている。

幼少期の正力松太郎

1885年4月11日 富山県射水市に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は立山連峰の雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった。
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助がこの地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。

38歳の正力松太郎

1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。

39歳の正力松太郎

虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。
財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。

49歳の正力松太郎

ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現讀賣巨人軍)が創設され

60歳の正力松太郎

A級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。
正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していた記録も残っている。日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、勝利期および読売新聞社、そして日本テレビ放送網を通じて日本政界に介入する計画がCIAでは「Operation Podalton」と呼ばれていた。

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67歳の正力松太郎

日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年に日本テレビ放送網本放送開始。

普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。

71歳の正力松太郎

前年の原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められたことをうけ、1956年原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。
これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。
初代科学技術庁長官に就任。

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72歳の正力松太郎

第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。

また、自民党総裁になることも考えていた正力は渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役に起用していた。

84歳の正力松太郎

10月9日 – 国立熱海病院で死去。奇しくもこの日は、読売巨人軍がセントラルリーグを制覇(5連覇)した日だった。叙・従二位。 14日に日本武道館にて葬儀。
サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ1969)を立ち上げ、これが事実上正力の最後の仕事となった。

森鴎外の名言・格言

森鴎外(1862-1922)日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医者・陸軍軍医、官僚。

森鴎外の名言・格言

苦難が大きすぎて、
自分ひとりの力で支え切れない場合には、
家族から身を隠して一人で泣きなさい。

そして、苦悩を涙とともに洗い流したら、
頭をあげて胸を張り、
家族を激励するために家に戻りなさい。

日の光を借りて照る、
大いなる月であるよりも、

自ら光を放つ
小さな灯火でありなさい。

みんなが誉めるのは、
おべっかである。

六割が誉めて
四割がけなすのが人材である。

世間の人は虎を、
性欲の虎を放し飼いにして、
どうかすると、

その背に乗って
逃亡の谷に落ちる。

己の感情は
己の感情である。

己の思想も
己の思想である。

天下に一人も
それを理解してくれなくたって、
己はそれに安じなくてはならない。

人に言うべき事は、
最後まできちんと言うがよい。

全部は言いたくないことだったら、
むしろ初めから黙っていよ。

一匹の人間が
持っているだけの精力を、
一事に傾注すると、

実際、不可能な事は
なくなるかも知れない。

現在は
過去と未来との間に、
画した一線である。

この線の上に生活がなくては、
生活はどこにもないのである。

武士はいざという時には
飽食はしない。

しかしまた空腹で
大切な事に取り掛かることもない。

一々のことばを、
はかりの皿に載せるような事をせずに、

なんでも言いたい事を言うのは、
われわれ青年の特権だね。

足ることを知ることこそが、
幸福である。

10歳の森鴎外

廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。墨田区曳舟に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある北千住に移り住む

12歳の森鴎外

1874年東京医学校(のちの東京大学医学部)予科に入学
実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)
定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
語学に堪能な鷗外は、後年、執筆に当たって西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。

19歳の森鴎外

19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。仲間たちの進めもあり12月陸軍軍医になる。

22歳の森鴎外

衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
最初の1年を過ごしたライプツィヒで、生活に慣れていない鷗外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。

26歳の森鴎外

1888年9月帰国、陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 – 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[18]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる

27歳の森鴎外

外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。
読売新聞の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。
その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊(日清戦争の勃発により59号で廃刊)