34歳のフローレンス・ナイチンゲール(1854年)

1854年にクリミア戦争が勃発すると、転機が訪れた。ロンドンタイムスにより、クリミア戦争の前線における負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況となっているかが伝えられるようになると、一気に世論は沸騰する。
ナイチンゲールもクリミア戦争に自ら志願して38名の看護婦を率い従軍。

後方基地と病院のあるスクタリに向かい、11月に到着。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。

60歳のペリー

中国で太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日に7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3に神奈川で日米和親条約を調印した。

幕府へ電信機と模型機関車を献上した。
4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた。同模型は、1872年に工部少輔の山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという
電信機の電線を1km程引き、公開実験を行った。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館に伝わる。

またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。

25歳の吉田松陰

ペリーが日米和親条約締結の為に再航。
漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船し、
一緒に渡航することについてを交渉。

しかし、渡航は拒否され、下田奉行所に自首した。

20歳の坂本龍馬

1854年

土佐に帰郷。

画家、河田小龍から西洋事情を学ぶ。

河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている。

また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。