73歳の吉田茂(1951年)

サンフランシスコ平和条約の締結。

この条約締結は吉田の政治生命をかけたものであった。

この条約により、日本と連合国の間にあった戦争状態を終結させ、日本はGHQの占領から独立する。

演説の最後は

「われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。」

という内容で締めくくる。演説内容の全文はコチラ

またサンフランシスコ講和会議には白洲次郎が全権団顧問として随行。吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更された。

また、アメリカとは日米安保条約(旧安保)を結び、日本国内に米軍の駐留を認めた。

21歳のウォーレン・バフェット

ニューヨークのコロンビア大学のビジネススクールで修士号を取得。

バフェットがニューヨークに移る決断をすることに影響を与えたきっかけが2年前にあった。ウォールストリートについて書かれた有名な『賢明なる投資家(原題:The Intelligent Investor)』という本に19歳のときに出会ったのだ。ここで語られている「価値ある投資」の理念が人生を変えた、と彼は語っている。

29歳の水木しげる

大家業の傍ら、副業として下宿人の紹介で紙芝居制作を始める。
水木と同じ変わり者ばかりが入居してきたため、家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。

一度は諦めた絵に対する熱意もあって、その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが紙芝居業は非常に薄給で、ましてや実績のない無名の新人作家にはまともな代金は支払われなかった。

48歳の吉田秀雄

全国で民放の申請が乱立。郵政省は周波数配分上の必要から、東京地区で申請を出していた朝日、毎日、読売の新聞社系3社の申請の一本化に乗り出しましたが失敗、これを受けて吉田が新聞社系3社と「東京放送」の4社の一本化を進めた。

「電通」の創業五十一周年を機に、鬼十則を発表した。

粘り強い折衝によって4社の一本化に成功、1951年1月、「株式会社ラジオ東京」として免許申請を行った。「ラジオ東京」は、同年12月24日のクリスマスイブに晴れて本放送を開始。

23歳の手塚治虫

『鉄腕アトム』(1952年 – )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載する。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。
もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)

72歳のアインシュタイン

イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退している。しかし、自分がユダヤ人であることを決して忘れてはおらず、著作権をヘブライ大学に送っている。