48歳の吉田秀雄

全国で民放の申請が乱立。郵政省は周波数配分上の必要から、東京地区で申請を出していた朝日、毎日、読売の新聞社系3社の申請の一本化に乗り出しましたが失敗、これを受けて吉田が新聞社系3社と「東京放送」の4社の一本化を進めた。

「電通」の創業五十一周年を機に、鬼十則を発表した。

粘り強い折衝によって4社の一本化に成功、1951年1月、「株式会社ラジオ東京」として免許申請を行った。「ラジオ東京」は、同年12月24日のクリスマスイブに晴れて本放送を開始。