59歳の田中正造(1900年)

川俣事件の発生。

足尾銅山鉱毒事件の被害者が東京へ陳情(実情を調べ対処してくれと願うこと)しに行こうとした時に、地元の警官隊と衝突した事件。

この事件後に正造は国会で川俣事件に対しての質問をしたが、当時の総理大臣・山県有朋に「質問の意味が分からない」と返される。

川俣事件で逮捕された者は後に全員釈放される。

59歳の山本五十六(1943年)

ブーゲンビル上空で米軍の襲撃で戦死。59歳。

い号作戦(日本軍によるソロモン諸島、ニューギニア島の連合国艦隊への攻撃)成功後に、パプアニューギニア島の前線航空基地の将兵をねぎらうために、五十六自ら行く予定を立てた。
しかし、戦艦「武蔵」から送られた暗号をアメリカ海軍に解読され、4月18日に襲撃され戦死した。

山本五十六の死は1ヶ月以上隠され、その死が新聞で世にでると、多くの国民が衝撃を受けたと言われている。
また、6月5には日比谷公園で国葬が行われた。
※皇族、華族以外で初めて国葬がおこなわれた人物

59歳の孫正義(2016年)

イギリスの半導体設計企業であるARMホールディングスを約3.3兆円(約240億ポンド)で買収

ドナルドトランプ次期米大統領と会談。
ソフトバンクが米国のテクノロジー業界に5兆7000億円の投資をすることを表明。

59歳の吉田秀雄

官邸で池田首相と広告問題で懇談、次官会議で「広告の文化的・経済的使命」を力説

東芝、電通、民放18社出資の「ビデオリサーチ株式会社」創立
テレビの視聴率調査装置を完成させ、テレビ広告取引の料金の参考となる指標を業界に導入した。

1963年 1月27日逝去

59歳のペリー

1853年7月8日、浦賀に入港した。7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれた。

59歳の伊藤博文

立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した

59歳の福澤諭吉

1894年 日清戦争。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。
日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。この頃までには慶応義塾は大学部を設けて総生徒数千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた

59歳のアインシュタイン

当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容だった。