25歳の吉田秀雄

日本電報通信社(現電通)に入社。
地方内勤課に配属される

当時のことを吉田は
「当時は広告取引きというものが本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。 ゆすり、かたり、はったり、泣き落としだ。僅かにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道なものにはやれなかった仕事なんだ。(中略)三年位の間、これはとんでもない事だ、一日も早くこんな商売からぬけ出さねば、これは大変なことになると、実はしょっ中考えておったのだけれども、(中略) そうこうしている内に、だんだん仕事の上でつき合いも出来てくる。顔馴染みも出来てくる。自分自身の私生活までが、その仕事の環境の中に捲き込まれちゃって、抜き差しならなくなったというのが真相だ。」(電通入社二十五周年回顧座談会より)
と語っている。

幼少期の手塚治虫

1928年11月3日、摂津国であった大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に長男として生まれた。
曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現在の東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。
父はカメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの映写機を所有、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治虫は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。
なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、手塚の家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」など、200冊を超える漫画本があったという