東京女子経済専門学校(後の新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任するほか、学監(学生を監督する職員)を務めていた拓殖大学より名誉教授の号を受ける。
タグ: 1928年あの人は何をしていたか
50歳の吉田茂(1928年)
田中義一内閣で外務次官となる。
16歳のアラン・チューリング
アインシュタインの書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかったニュートン力学について、アインシュタインの疑問を外挿したという。
25歳の吉田秀雄
日本電報通信社(現電通)に入社。
地方内勤課に配属される
当時のことを吉田は
「当時は広告取引きというものが本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。 ゆすり、かたり、はったり、泣き落としだ。僅かにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道なものにはやれなかった仕事なんだ。(中略)三年位の間、これはとんでもない事だ、一日も早くこんな商売からぬけ出さねば、これは大変なことになると、実はしょっ中考えておったのだけれども、(中略) そうこうしている内に、だんだん仕事の上でつき合いも出来てくる。顔馴染みも出来てくる。自分自身の私生活までが、その仕事の環境の中に捲き込まれちゃって、抜き差しならなくなったというのが真相だ。」(電通入社二十五周年回顧座談会より)
と語っている。
20歳のオスカー・シンドラー
在学中にチェコスロバキア陸軍の徴兵を受けた。また1928年5月からしばしばオートバイ・レースに出場。
1928年エミーリエと結婚。
39歳のアドルフ・ヒトラー
ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得。
幼少期の手塚治虫
1928年11月3日、摂津国であった大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に長男として生まれた。
曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現在の東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。
父はカメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの映写機を所有、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治虫は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。
なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、手塚の家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」など、200冊を超える漫画本があったという
29歳の高柳健次郎
人物の送像のテレビ実験に成功するまでに至った (走査線数は40本、毎秒送像数14枚)
88歳の渋沢栄一
日本航空輸送会社(後のJAL)創立・創立委員長。日本女子高等商業学校(後の嘉悦学園)発起人。