バフェットは故郷のオマハで105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立
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33歳の司馬遼太郎
「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞を受賞し、出世作となる
21歳の赤塚不二夫
プロの漫画家だったつげ義春からの紹介で、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。状況した友人石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。
当時は原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、トキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。
71歳の正力松太郎
前年の原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められたことをうけ、1956年原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。
これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。
初代科学技術庁長官に就任。
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