33歳の金栗四三(1924年)

1924年(大正13年) 第8回オリンピック(パリ)にも日本代表選手として参加。マラソン競技に出場したが、32km付近で意識不明となり完走はならなかった。
これ以降、四三は競技人生から引退し、後輩の指導に本格的に取り組むようになる。

68歳の犬養毅(1924年)

1月に第2次護憲運動が起こる。

第2次山本内閣が総辞職すると、貴族院議員の清浦奎吾が総理大臣となる。
清浦内閣の支持基盤は研究会(貴族院の会派)であったため、内閣は貴族院に大きく偏った。

この清浦内閣に対して、革新倶楽部(立憲国民党の後身)を率いていた犬養毅は、立憲政友会(衆議院の第1党)の高橋是清や憲政会の加藤高明らと協力して護憲運動を始める。
※革新倶楽部・立憲政友会・憲政会の3党を「護憲三派」という。

6月には加藤高明内閣が発足。

犬養毅は逓信大臣を務めた。
※加藤内閣下では普通選挙法・治安維持法など成立。外交では日ソ基本条約が締結。

一旦、政界を引退する。

16歳のオスカー・シンドラー

国民学校に入学し、さらに実科学校、上級実科ギムナジウムと進んだが、成績証明書の改ざんを行ったことで1924年に退学処分となった。
後に学校へ戻る事を許されたが、クラスメイトから「詐欺師シンドラー」と呼ばれる。
学業優秀ではなく大学進学もあきらめている。

39歳の正力松太郎

虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。
財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。