勲二等瑞宝章を受章する。
長年の日本水泳界への功績が認められ勲二等瑞宝章を受章する。
勲二等瑞宝章を受章する。
長年の日本水泳界への功績が認められ勲二等瑞宝章を受章する。
出血性膵臓癌により死去。
カナダで開かれた太平洋問題調査会会議に日本代表団体団長として出席した。
しかし、会議終了後に倒れ、手術・入院するも亡くなった。
稲造が亡くなったこの年は、自身が事務次長を務めていた国際連盟から日本が脱退した年でもあった。
第3次吉田内閣を組閣。
第24回衆議院議員総選挙で圧勝する。
『戦争と平和』のパネルを制作
宮田雪の案内で、ホピ族等のアメリカ・インディアンを探訪。この頃以降、「世界の妖怪」を求めて、自費で海外の奥地を「冒険旅行」するようになる
政界引退を表明「顧みて我が政治生活にいささかの悔いもなし」との声明文が読み上げられた。勤続43年
日本ビクター代表取締役副社長就任。73年には日本ビクター技術最高顧問に就任。
前年の原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められたことをうけ、1956年原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。
これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。
初代科学技術庁長官に就任。
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勲一等に叙し瑞宝章を授与される。