43歳の大隈重信(1881年)

太政官に統計院を設立し初代院長となる。

自由民権運動に同調し早期の憲法公布と国会の開設を説いた。
※憲法ではイギリス式の議院内閣制を支持し、ドイツ帝国憲法を支持する伊藤博文と対立する。

10月には伊藤ら薩長勢と対立し参議を罷免された(明治十四年政変)。

19歳の森鴎外

19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。仲間たちの進めもあり12月陸軍軍医になる。

46歳の福澤諭吉

明治十四年の政変(憲法制定論議の中でのビスマルク憲法派と議院内閣制派との対立)
伊藤博文と井上毅により大隈重信とそのブレーンの慶應義塾門下生が政府から一掃される。
諭吉は、この事件に際して人生で最も長い手紙を伊藤と井上馨に送った。 この手紙に対して井上は返事の手紙を返したが伊藤は返答しなかったらしい。
さらに井上が大日本帝国憲法・皇室典範・教育勅語・軍人勅諭の起草全てに参加したため、諭吉は伊藤と井上馨との交際を絶つこととなった。