60歳の田中正造(1901年)

明治天皇への直訴。

正造は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は継続し演説を行い続けた。

また、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に鉱毒事件についての直訴したが失敗する。
この時、正造は死を覚悟したと言われているが釈放された。

60歳の大隈重信(1898年)

板垣退助らと力を合わせて憲政党を結成し、内閣総理大臣に就任する。
※憲政党とは大隈の進歩党と板垣の自由党が合流した党
※薩長出身以外から初の総理大臣となった

しかし、旧進歩党と旧自由党の間で対立や文相の後任を巡っての対立などにより4ヶ月で総辞職。
※大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いた

60歳の孫正義(2017年)

最終利益が前年度のおよそ3倍、1兆4263億円で過去最高益。日本企業で最終利益が1兆円を超えたのはソフトバンクグループで3社目。

サウジアラビア政府系の公共投資ファンドと計画していた10兆円規模の投資ファンドが発足

60歳の手塚治虫

1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。
1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという。
100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。

同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。
手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。

周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。
しかし手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。

手塚治虫に関する映像

60歳の正力松太郎

A級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。
正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していた記録も残っている。日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、勝利期および読売新聞社、そして日本テレビ放送網を通じて日本政界に介入する計画がCIAでは「Operation Podalton」と呼ばれていた。

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60歳のペリー

中国で太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日に7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3に神奈川で日米和親条約を調印した。

幕府へ電信機と模型機関車を献上した。
4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた。同模型は、1872年に工部少輔の山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという
電信機の電線を1km程引き、公開実験を行った。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館に伝わる。

またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。

60歳の清水次郎長

1880年頃
清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。
この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。