39歳の田中正造(1880年)

栃木県議会議員となる。

県議会議員として地方自治に力を入れ、県令(現在の知事)・三島通庸と争う。
5年後には三島の暗殺事件(加波山事件)への関与が疑われ逮捕される。
※加波山事件は自由民権運動の1つ
逮捕されもたものの三島が異動になったことで釈放、1886年には第13回臨時県会で議長となる。

39歳のナポレオン(1808年)

大陸で初の敗北。

同盟国であったスペインの内紛に介入し、兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王に就けた。
しかし、マドリードの市民が蜂起を起こしたため、ナポレオンは軍を派遣するがスペイン軍の前に敗北する。

さらに、イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍と戦った半島戦争(イベリア半島)でも敗北する。

39歳の孫正義(1996年)

米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。

同年、衛星放送プラットフォームの運営会社としてジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)をルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資により設立、マードックが会長、自らは社長に就任。翌年、パーフェクTV!を運営する日本デジタル放送サービス(現スカパーJSAT)と合併、スカイパーフェクTV!(スカパー!)として放送を開始。

39歳の織田信長

武田信玄の病死により、進軍される危機を回避。

1573年7月 再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡

越前国を攻め、朝倉義景を自害させ、越前国を支配下に。

小谷城の戦で、浅井長政を自害させ近江国を支配下に。
(長政に嫁いでいた妹のお市の方と、その娘茶々(淀殿)、初、於江与は落ち延びる)

39歳の水木しげる

40歳になる独身の水木を心配した両親が縁談の話を持ちかけ、布枝夫人とお見合いで結婚。
結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚。

39歳の杉原千畝

リトアニアの在カウナス領事館・領事代理に任命される。
カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都で、そこに最初の日本領事館を開設した。
日独伊三国同盟後もヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかった日本は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思い、日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することがその役割であった。

39歳のサン=テグジュペリ

3月、自動車でドイツを旅行。7月、「人間の土地」出版でアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞。7月、友人ギヨメの飛行艇での大西洋横断飛行に同行。8月、「人間の土地」英語版宣伝のため、アメリカ訪問。ニューヨークでリンドバーグ夫妻に会う。戦争の危機を感じて、急遽帰国。9月対ドイツ開戦。召集され予備大尉となる。11月、偵察飛行大隊に配属される。

39歳の吉田秀雄

日常生活は戦争遂行のために犠牲にされ、衣食は国の統制下に置かれてしまった。新聞や雑誌などの広告媒体は、軍の統制のもとでやせほそり、広告活動そのものが価値をもたない時代となっていた。

1941年に営業局地方部長に昇格。
翌1942年六月には取締役に選任され、同年十二月には常務取締役に就任した。

39歳の三浦知良

2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献

39歳の田中角栄

第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。

戦後初めて30歳代での大臣就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 – キー局 – ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中の飛躍の原動力になった。

39歳の赤塚不二夫

税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6000万円ともされた。

原因はフシオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。。

しかし横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。(その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している)

39歳の正力松太郎

虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。
財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。