1859年にイギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれ、後にはアメリカ統計学会の名誉メンバーに選ばれた。
タグ: 1859年あの人は何をしていたか
20歳の高杉晋作
師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をする。
投獄中の松陰から高杉に送られた死生観に対する手紙の内容。
「死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。生きるとか死ぬとか…、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではありません。」
藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。
長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している。
26歳のアルフレッド・ノーベル
戦争終結と同時に事業は逼迫、父の会社は1859年に再び破産する。
スウェーデンに戻ったノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。
ノーベル本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことだが、この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。
1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。
24歳の岩崎弥太郎
東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
25歳の土方歳三
18歳の伊藤博文
義兄の桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結ぶ。
吉田松蔭が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。この時、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。この後、桂を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになる。
24歳の福澤諭吉
外国人居留地となった横浜の見物に出かけた。諭吉自身が学んできたオランダ語が全く通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。英語の必要性を痛感する。
30歳の吉田松陰
安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて評定所で取り調べの結果、同年10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。