23歳の東郷平八郎(1871年)

イギリスへ留学する。

海軍士官として官費で留学する。

イギリスではゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーや商船学校ウースター協会で海軍技術を学んだ。

また、国際法についても学んだ。

留学中に、西南戦争(1877年)で西郷隆盛が死んだのを聞くと「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と西郷の死を悼んだ

30歳の田中正造(1871年)

再び投獄される。

江刺県の役人となった正造であったが、上司・木村新八郎の暗殺事件が起こると正造が犯人にでっち上げられる。
この時、正造は医者が来るまでに木村の応急措置をしていたが、正造の服に血が付いていたことや日頃から上司や他の役人らと言い争いをしていたことから疑われた。
※約3年の投獄後に木村新八郎の息子が無罪を証言したことで釈放される

獄中では厳しい取り調べがあったものの、書物を読んで西洋の政治などを学んだ。

6歳の津田梅子(1871年)

6歳の時に渡米する。

父の津田仙が開拓使次官・黒田清隆と知り合いになると、黒田清隆が女子教育に関心を持っていたことから、娘の梅子を女子留学生として渡米させる。

津田梅子は岩倉具視をリーダーとする岩倉使節団とともに渡米する。
※梅子の他に4人の女学生が渡った(梅子は最年少)

10年ほどアメリカに住み、ラテン語やフランス語を学ぶほか、自然科学や心理学も学んだ。
※学校も卒業する