17歳のカール・マルクス

卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという。

この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人ハインリヒ・ハイネの影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。
マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという
10月にボン大学に入学。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた。

18歳になったマルクスはプロイセン陸軍に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している

15歳の清水次郎長

1834 年、山本の家に戻った。養母のへそくり450両を盗み、江戸を目指す。次郎八が追ってを出し、捕まえるが次郎長は300両しかもっていなかった。その100両について何も答えないところをみて、次郎八は次郎長を放逐した。

次郎長はどうやら捕まることをみこして、100両強を隠していただようだ。その金を持って服を新調し、浜松の米相場を貼り、巨利を得た。

その巨利をもって清水に凱旋し、100両と玄米50石を次郎八に渡し、勘当も解かれた。

養父の次郎八は1835年に死去。次郎長は甲田屋の主人となる。

次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返している。

幼少期の土方歳三

現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3ヶ月前の2月5日に結核で亡くなっている。
幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたという