21歳の水木しげる

召集令状が届き、ラバウルへ出征。
軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊の児玉清三中尉からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた。
他に下士官の宮一郎軍曹や軍医の砂原勝巳大尉など、親切に接してくれる人物もいた。

出生前の手記には
「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。­今は考へる事すらゆるされない時代だ」「吾は­死に面するとも理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも吾であらん事を欲する­」「私の心の底には、絵が救ってくれるかもしれないと言ふ心が常にある。私には­本当の絶望と言ふものはない」
などと書かれていた。

43歳のサン=テグジュペリ

4月6日、「星の王子さま」出版。6月、カナダのモントリオールにて「ある人質への手紙」出版。北アフリカ行きの軍用船に乗船。星の王子さまの初刷りを持って、ニューヨークから北アフリカの連隊へと向かう船の中で、サン=テグジュペリはこう語っていたと船員が伝えている。「戦争が終わったら、ソレームの修道院に入りたいとよく言っていた。そして話の終わりはいつも賛美歌になっていた」 偵察飛行大隊に復帰、サルディニア島アルゲーロ基地に配属される。少佐に昇進。7月、フランス上空への偵察任務につく。8月、エンジン故障で引き返し、操作ミスによる着陸事故。このため予備役に回される。

30歳のロバート・キャパ

1942年『コリアーズ(英語版)』の特派員としてロンドンに渡る。1943年に北アフリカ戦線、イタリア戦線を取材。その間に突如『コリアーズ』の契約を解除されてしまうが、知己のあった『ライフ』と契約した。

ITALY. 1943-1944. Second World War.
Robert Capa © International Center of Photography

35歳のオスカー・シンドラー

クラクフのゲットーは解体され、ユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。

シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。
この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。

シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。
労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけた。