21歳の水木しげる

召集令状が届き、ラバウルへ出征。
軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊の児玉清三中尉からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた。
他に下士官の宮一郎軍曹や軍医の砂原勝巳大尉など、親切に接してくれる人物もいた。

出生前の手記には
「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。­今は考へる事すらゆるされない時代だ」「吾は­死に面するとも理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも吾であらん事を欲する­」「私の心の底には、絵が救ってくれるかもしれないと言ふ心が常にある。私には­本当の絶望と言ふものはない」
などと書かれていた。

23歳のオスカー・シンドラー

軍の勤務を終えた後、シンドラーはブリュンの電機会社に復職したが、この会社は1931年に倒産してしまった。シンドラーはこの後一年ほど失業者になった。シンドラーの父の農業機械工場も倒産していたため援助を受けられず、結局はエミーリエの父に援助してもらって生活を耐え凌いだ。シンドラーは養鶏場を買い、またプラハの銀行の代理人の仕事に就き、ブリュンの商人に国有財産を売却する仕事に携わる。