21歳のトーマス・エジソン

初めて特許を取得。それは電気投票記録機に関するもので、議会における賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票にかかる時間を大幅に短縮できる画期的な発明となる筈だった。だが、実際には「少数派の議員による牛歩戦術ができなくなる」という理由で全く採用されなかった。エジソンはこの苦い経験を通して、いくら立派な発明でも人々が喜んでくれなければ何の意味もない事を痛感し、その後は周囲の人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになったという。

28歳の渋沢栄一

明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。

48歳の清水次郎長

東海道筋・清水港の警固役を任命された。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した(咸臨丸事件)。
その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬し、翌年には「壮士墓」を建立した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。

34歳の土方歳三

鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃の前に敗北する。
その後、江戸城に登城した土方歳三は、戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感.
新政府軍に包囲された近藤が投降。このとき歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたとも、最後まで投降に反対したとも言われる。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、近藤は板橋刑場(現JR板橋駅前に墓所有り)にて斬首された。

46歳の勝海舟 

1868年

軍の東征が始まると、幕府は勝を呼び戻した。海舟は、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う。西郷との会談のすえ、江戸城の無血開城を実現