榎本武揚の名言・格言

江戸時代から明治時代にかけて活躍した日本の武士、化学者、政治家。

逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任。
●樺太・千島交換条約締結後にはロシアの実情を知るためにシベリアを横断した。
●海外殖民にも興味を持っており、主にメキシコへの殖民を行った。
●富山県で発見された隕石から日本刀を作らせて皇太子(後の大正天皇)に献上した。

榎本武揚の名言
「人為の階級こそ差はあれども、その教育に対するに至りては同じく共に責任を負うものなり。同じ釜の飯を食うものなり。」

「振り返ってみて五稜郭のときの苦労を思えば、外務大臣の仕事などどれほどのものでもない。」

「新政府軍恐るるに足らず。軍略をもって勝ちを制したい。」

「王政復古は日本の幸福であり私も希望するものだ。しかし、明治政府はその題目に公明正大であっても実態はそうではない。新政府軍は徳川慶喜に朝敵の汚名を着せ、ひどい扱いをし、つには城を没収し、蓄えを奪い、先祖の墓まで廃し、さらに領地を政府のものとし、慶喜は自宅を持つことさえできない。これは政府が有力諸藩の意のままになっているからであり、本当の王政とはいえない。」

幼少期の榎本武揚

10月5日に江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋)で榎本武規の次男として生まれる。幼名は釜次郎。

父・榎本武規は伊能忠敬のもとで「大日本沿海輿地全図」の作成にも関わっている。

幼少の頃は近所に住んでいた田辺石庵のもとで儒学を学ぶ。

28歳の榎本武揚(1864年)

戦争を観戦武官として見学。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセン・オーストリア連合vsデンマーク王国)にプロイセン・オーストリア軍の観戦武官として見学する。
この後にはデンマーク軍の戦線も見学する。

また、フランスが幕府に対して軍艦の建造・購入を提案してきた際には、フランス海軍と交渉した。

32歳の榎本武揚(1868年)

戊辰戦争の勃発。

武揚は幕府方として参戦し、大坂城から江戸城への撤退を指揮した。
徳川慶喜が新政府軍への恭順を図る中、武揚は徹底抗戦を主張した。
しかし、江戸城の無血開城(4月)や奥羽越列藩同盟の崩壊などもあり、旧幕府軍は次第に劣勢になっていく。

武揚ならびに旧幕府軍は北上し、蝦夷・箱館の五稜郭に籠城し新政府軍を迎え撃つ(箱館戦争)も、1869年6月27日に降伏した。
※箱館戦争では新撰組副長・土方歳三も戦死している

36歳の榎本武揚(1872年)

開拓使として北海道に赴く。

箱館戦争での敗北後、武揚は東京へ護送され投獄される。
榎本の処罰に対して木戸孝允た長州藩は厳罰を求めるが、黒田清隆・福沢諭吉らの助命によって2年間の投獄で住んだ。

以後、武揚は明治政府で働くことになり、最初の仕事は黒田清隆が次官を務めていた北海道開拓使であった。

38歳の榎本武揚(1874年)

駐露特命全権公使に任命される。

前年には代理としてロシア帝国との樺太の国境について交渉し、翌年の5月にはロシア帝国の外務大臣・アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を締結した。

また、日本で初の海軍中将にも任命される。

53歳の榎本武揚(1889年)

大日本帝国憲法の発布式で儀典掛長を務める。

また、文部大臣・森有礼が暗殺されると逓信大臣から文部大臣に就任する。

第1次山県内閣では文部大臣に留任する。
また、明治天皇より道徳教育の基準策定を命じられていたが、取り組まなかったため更迭される。