25歳の高杉晋作

京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放される。1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。
桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、
脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害した。

8月、4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。

これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。

10月、下関で大敗した長州藩では保守派が台頭する。晋作は福岡に逃れる。

25歳の吉田秀雄

日本電報通信社(現電通)に入社。
地方内勤課に配属される

当時のことを吉田は
「当時は広告取引きというものが本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。 ゆすり、かたり、はったり、泣き落としだ。僅かにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道なものにはやれなかった仕事なんだ。(中略)三年位の間、これはとんでもない事だ、一日も早くこんな商売からぬけ出さねば、これは大変なことになると、実はしょっ中考えておったのだけれども、(中略) そうこうしている内に、だんだん仕事の上でつき合いも出来てくる。顔馴染みも出来てくる。自分自身の私生活までが、その仕事の環境の中に捲き込まれちゃって、抜き差しならなくなったというのが真相だ。」(電通入社二十五周年回顧座談会より)
と語っている。

25歳の三浦知良

1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導き大会MVP、Jリーグ開幕後はラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉らその他多くのチームメイトに恵まれV川崎の黄金期を築いた。1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞

25歳の司馬遼太郎

1948年産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる

25歳の安室奈美恵

SAMと離婚。当初、親権はSAMに渡ったが、養育権は安室が持ち、2005年には親権も移りシングルマザーとなる。

SAMと離婚後、両腕にタトゥーを入れた。
左腕には以下の英文と、その下に大きくHARUTOと刻まれている。

JUN.30 in 1950
my mother’s love live with me
Eternally in my heart
R.I.P
MAR.17 in 1999

1950年6月30日(母親の生年月日)
母の愛は私と一緒に生きている
私の心の中で永遠に
rest in peace(安らかに眠れ)
1999年3月17日(母親が亡くなった日)

右腕にはバーコードと自身の生年月日が刻まれていたが現在は消している。右腕内側に新たに『Love Peace World』と刻まれている。

「Wishing On The Same Star」をリリース

25歳の田臥勇太

NBAロサンゼルス・クリッパーズと契約し、プレシーズン戦7試合に出場したがシーズン開幕前の10月31日に経験不足を理由に解雇された。同年11月3日にNBA傘下のNBAデベロップメント・リーグに9巡目70位でドラフト指名され、アルバカーキ・サンダーバーズに入団した。チームの主要選手として活躍したが、シーズン後半に怪我で戦線離脱した。

25歳のカール・マルクス

検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることなった。

編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌(ドイツ語版)』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、共同編集長に。

同年にイェーニと結婚。
親族で反対する者が多かったが、イェニーの意思は変わらなかった。
マルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主とベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている

25歳の土方歳三

天然理心流に正式入門

天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派の クセが取れなかったようである。しかし、多様なバックボーンを備えていたためか、路上での実戦では滅法強かったと言われている。斬り合いの時、足下の砂を 相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したり等、剣術修行の型にとらわれず縦横無尽に戦闘をしていたという。

25歳の福澤諭吉

咸臨丸の従者としてアメリカへ立つ。帰国し、蘭学塾から英学塾へと方針を転換する。この時同行した木村摂津守とは晩年まで親交があった。後に慶應義塾の土地を用意したのも木村であった。
アメリカでは文化の違いに驚きをもった。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している。