スティーブ・ジョブズの名言・格言

スティーブ・ジョブズ
1955年2月24日 – 2011年10月5日

アップル社の共同設立者の一人である

 

スティーブ・ジョブズの名言・格言

Stay hungry. Stay foolish.

過去ばかり振り向いていたらのではダメだ。
自分がこれまで何をして、
これまでに誰だったのかを受け止めた上で、
それを捨てればいい。

墓場で一番の金持ちになることは
私には重要ではない。
夜眠るとき、
我々は素晴らしいことをしたと言えること、
それが重要だ。

当時は分からなかったが、
アップル社に解雇されたことは、
私の人生で起こった
最良の出来事だったと後に分かった。
成功者であることの重さが、
再び創始者になることの身軽さに置き換わったのだ。
何事につけても不確かさは増したが、
私は解放され、
人生の中で最も創造的な時期を迎えた。

この地上で過ごせる時間には限りがあります。
本当に大事なことを
本当に一生懸命できる機会は、
二つか三つくらいしかないのです。

旅の過程にこそ
価値がある。

幼少期のスティーブ・ジョブズ

1955年2月24日、シリアからの留学生で政治学を専攻する大学院生アブドゥルファター・ジャンダリとアメリカ人の大学院生ジョアン・シーブルとの間に生まれる。

ジョアンの父が、ムスリムのシリア人であるアブドゥルファターとジョアンとの結婚を認めなかったため、誕生以前から、養子に出すことに決められていた。

結果、ジョブズはジョブズ夫妻に引き取られることになった。母であるジョアンはジョブズ夫妻が大学卒でないことを知り養子縁組を躊躇していたが、ジョブズ夫妻がジョブズを大学に進学させることを約束したために養子縁組が成立したという。

13歳のスティーブ・ジョブズ

あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。ビル・ヒューレットがパロアルトに住んでいることを知っており、電話帳で調べてみたところ、パロアルトで、彼の名前で掲載されている電話番号はひとつしかなかった。ジョブズが周波数カウンタの部品をくださいと言うと、ビル・ヒューレットは部品をくれたばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけた。アルバイト先はヒューレット・パッカードの支社で、周波数カウンタを作っているところだったという

16歳のスティーブ・ジョブズ

高校生になったジョブズは、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、スティーブ・ウォズニアックと出会う。容姿も性格も正反対だったが、すぐに意気投合。ある時、ウォズニアックの母親からもらった「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていたブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけるというフリーキング(不正行為)の記事を読んだ2人は、スタンフォード大学の図書館に入り込み、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出して、自分たちでオリジナルのブルー・ボックスを作り上げた。
2人は、この装置で長距離電話をかけまくったという。ウォズニアックは装置を作ったことで満足したが、ジョブズは、当時ウォズニアックの通っていたカリフォルニア大学バークレー校の寮で、この装置を1台100ドルから150ドルで売りさばいた。装置自体は1台40ドル程度で、大いにもうかったようだが、そのうち銃で脅されるようになり、身の危険を感じたジョブズは販売を止めた。

17歳のスティーブ・ジョブズ

高校も卒業というときジョブスはLSDを試し、麦畑がバッハの曲を奏でるという幻覚体験をした。

リード大学へ進学。大学時代のジョブズはユダヤ・キリスト・イスラム・アニミズム・太陽神・思想・坐禅・食事・ヒッピー文化に心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。

またかなりの音楽ファンであり、ビートルズやグレイトフル・デッドなどを聴きまくっていた。

ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」ために中退した。

しかし中退後もリード大学のキャンパスを放浪し、コーラの空き瓶拾いや心理学科の電子装置修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィー(西洋書道)など興味のあるクラスだけを聴講するもぐりの学生として過ごし、合計18ヶ月をリード大学に費やした。

19歳のスティーブ・ジョブズ

インドまで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。1974年2月にジョブズは実家に戻り、その日のうちにビデオゲーム会社のアタリを訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップに交渉し、40人目の社員として採用され、時給5ドルのテクニシャン(下級エンジニア)として働くこととなった。

上司に頼み援助を得て、インドに渡ったが、すぐに赤痢にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望した。

21歳のスティーブ・ジョブズ

ウォズニアックと簡易な個人向けのコンピューターを開発したが、ヒューレットパッカード、アタリのいずれにも相手にされなかったため2人は資金を集め自分達でこのコンピュータを売り出すことを決意。

6月にApple Iを666.66ドルで販売開始。

26歳のスティーブ・ジョブズ

Apple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータを目指すLisaプロジェクトのメンバーから外されたジョブズ。
誰にでも簡単に扱える、ノート代わりのコンピュータを目指すMacintoshプロジェクトへの参画をすることになった。

28歳のスティーブ・ジョブズ

ジョブズと対立し、関係が悪化していた社長スコットが、1981年マークラに解雇された。ジョブズはスコットの後任として、マーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、引き抜き工作を行った。

この時、スカリーを口説くために「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか? それとも世界を変えたいか?」(英: Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)と言った。

熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年、ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。

29歳のスティーブ・ジョブズ

「Macintosh」を発売。

ジョブズはMacintoshの需要予測を大幅に誤り、アップルは過剰在庫に悩まされ、初めての赤字を計上してしまった。アップルは、従業員の1/5にあたる人数のレイオフ(人員削減)を余儀なくされた。

30歳のスティーブ・ジョブズ

スカリーはアップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになり、Macintosh部門からジョブズを解任することを取締役会に要求する。

それを察知したジョブズは、スカリーの中国出張中にスカリーの追放を画策するが、密告により、スカリーはジョブズが自分をアップルから追い出そうとしていることを知る。

その後、スカリーは、取締役会で、ジョブズに自分の追放を画策した事について問いただし、この結果ジョブズは会長職以外、アップルでのすべての仕事を剥奪される。

スカリー宛に辞表を送付、アップル社の株・約650万株をすべて売却。高等教育のためのコンピュータという構想を実現すべく新しい会社NeXTを立ち上げる。

31歳のスティーブ・ジョブズ

ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、ピクサーと名付け、CEOの座に就いた。

ピクサーの主要商品は約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』のコンピュータグラフィックス制作でも使われた。

養母クララが亡くなり生母と再会、この時に妹・モナ・シンプソンの存在を知り初対面を果たす。

42歳のスティーブ・ジョブズ

経営の実権を奪取すべく、社内で隠密に行動を開始し、CEOのアメリオを追い出すための画策を講じる。
「業績を向上させられない」として、すべての役員を味方につけアメリオをCEOから引きずり下ろすことに成功。

ライバルとされていたマイクロソフトから資金提供と業務提携を発表。

いくつかの社内プロジェクトを中止、大規模なリストラを行った。
前後して、企業買収によりインターネット直売事業への参入 (Apple Online Store)を行い、Macintosh互換機メーカーへのMac OSライセンスを停止、利益率の高いPowerPC G3搭載機種を市場に独占投入。こうした矢継ぎ早の改革により、アップルの再建を軌道に乗せた。

1997年のCM

48歳のスティーブ・ジョブズ

膵臓癌と診断される。
幸いにも治療可能な症例であった。周囲はジョブズにすぐに手術をうけるように忠告したが、東洋文化を尊重していたジョブズは、西洋的な医術を頑なに拒否し絶対菜食、ハリ治療、ハーブ療法、光療法などて完治を図ろうとしていたといわれるが医学的治療は遅れ、そのことから9か月後の検査で癌が大きくなっていることがわかり、摘出手術を受け療養後復帰した。

56歳のスティーブ・ジョブズ

最新の治療をうけるなどしたものの癌の進行を食い止めることはできず、癌は骨などの全身に転移し、手の施しようのない状況であった。

2011年8月24日、2009年の宣言のとおり「CEOとしての職務が継続できなくなったら話すと言っていたが、残念ながらその日が来てしまった」として、取締役会に辞表を提出してCEOを辞任、後任にティム・クックを推挙し、ジョブズの意向通りにクックが後継に就任した。同時に取締役会の承認を受けて会長職へ就いた。

ジョブズがCEOを退任する8月には、アップルは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業となっていた。

すでにこの時ジョブズは自力では歩くことができず、車椅子で取締役会に駆けつけた。そしてティム・クックら幹部社員を部屋から退出させた上で、社外取締役に対し上記の内容のメッセージを読み上げた。

2011年10月5日 妻や親族に看取られながらパロアルトの自宅で死去

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STEVE JOBS Last Words –
スティーブジョブス最後の言葉

I reached the pinnacle of
success in the business world.
私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。

In others’ eyes, my life is an epitome of success.
他の人の目には、私の人生は、
成功の典型的な縮図に見えるだろう。

However, aside from work, I have little joy.
In the end, wealth is only a fact of life that
I am accustomed to.

しかし、仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。
人生の終わりには、富など、私が積み上げてきた
人生の単なる事実でしかない。

At this moment, lying on the sick bed and
recalling my whole life,
I realize that all the recognition and wealth that
I took so much pride in, have paled and become
meaningless in the face of impending death.

病気でベッドに寝ていると、
人生が走馬灯のように思い出される。

私がずっとプライドを持っていたこと、
認証(認められること)や富は、
迫る死を目の前にして
色あせていき、何も意味をなさなくなっている。

In the darkness, I look at the green lights from
the life supporting machines and hear the
humming mechanical sounds,

この暗闇の中で、生命維持装置の
グリーンのライトが点滅するのを見つめ、
機械的な音が耳に聞こえてくる。

I can feel the breath of God and of death drawing closer…

神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。

Now I know, when we have accumulated
sufficient wealth to last our lifetime, we should pursue
other matters that are unrelated to wealth…

今やっと理解したことがある。

人生において十分にやっていけるだけの
富を積み上げた後は、富とは関係のない
他のことを追い求めた方が良い。

Should be something that is more important:
もっと大切な何か他のこと。

Perhaps relationships, perhaps art,
perhaps a dream from younger days …

それは、人間関係や、芸術や、
または若い頃からの夢かもしれない。

Non-stop pursuing of wealth will only turn
a person into a twisted being, just like me.

終わりを知らない富の追求は、
人を歪ませてしまう。私のようにね。

God gave us the senses to let us feel
the love in everyone’s heart, not the illusions
brought about by wealth.

神は、誰もの心の中に、
富みによってもたらされた幻想ではなく、

愛を感じさせるための「感覚」
というものを与えてくださった。

The wealth I have won in my life I cannot bring with me.
私が勝ち得た富は、(私が死ぬ時に)
一緒に持っていけるものではない。

What I can bring is only the
memories precipitated by love.

私が持っていける物は、愛情にあふれた思い出だけだ。