64歳の田畑政治(1962年)

日本オリンピック委員会(JOC)会長と選手強化対策本部常任顧問を辞任。

第4回アジア競技大会がインドネシアで開催される。
しかし、この大会はホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否したことで、国際オリンピック委員会(IOC)から正規の大会ではないと通告される。
※インドネシアが共産諸国やアラブ諸国との連携強化のために、台湾(中国と関係が悪い)やイスラエル(アラブ諸国との中東における宗教問題)といった政治問題で拒否した。

日本でもこの大会への参加の有無が話し合われたがJOCは出場を決定する(インドネシアとの関係悪化を危惧)。
しかし、大会後に日本や他国から無責任な参加として捉えられ、田畑はその責任を負い会長を辞任する。

以後、田畑は組織員会の委員として活動することになります。

晩年のペリー

帰国した後は遠征記などを記す。晩年は鬘を着用していた。また、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。

64歳の清水次郎長

「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕される。懲役4年を言い渡されるが、山岡鉄舟や養子とした天田愚庵らの尽力で翌年には釈放される。

天田愚庵が次郎長を釈放するために、世間にその功績を認めさせようと「東海遊侠伝・一名次郎長物語」を出版したのもこの年である。

64歳の伊藤博文

韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した[注釈 3]。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立。
韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた(1907年)。

64歳の福澤諭吉

意識不明で倒れるが約1時間後に回復。
19世紀と20世紀の「世紀送迎会」を開催。風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに「儒学者の夢」「階級制度の弊害」「蓄妾の醜態」という3枚の風刺画に一斉射撃して点火、「二十センチュリー」という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものであった。