江戸に下向(出府)する。
江戸では安井息軒(やすい そっけん、儒学者)のもとへ弟子入りするが、吉原遊郭に頻繁に通っていたことがバレて破門させられる。
破門後は水本成美(律令学者)のもとで学ぶ。
この頃に、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)、そして伊藤博文と親交を持つようになる。
江戸に下向(出府)する。
江戸では安井息軒(やすい そっけん、儒学者)のもとへ弟子入りするが、吉原遊郭に頻繁に通っていたことがバレて破門させられる。
破門後は水本成美(律令学者)のもとで学ぶ。
この頃に、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)、そして伊藤博文と親交を持つようになる。
海軍伝習所の卒業後は、江戸にある築地軍艦操練所(幕府が設置した海軍士官の養成機関)の教授となる。
また、この頃にジョン万次郎のもとで英語を学ぶ。
島津斉彬が死去し藩主が島津茂久になると、茂久の父・島津久光(当時は忠教)が実権を握る。
西郷隆盛が失脚。
1858年6月16日、イリノイ州の共和党大会で連邦上院議員の共和党候補者として選出。その際、「分かれたる家は立つこと能わず」と演説。北部の有力政治家として初めて連邦の南北分裂に言及した
中間選挙において、奴隷制維持論者の民主党ダグラスと選挙戦を戦うことになる。全米の注目を集める。8月から10月まで計7回の立会演説会を実施。奴隷制を徹底的に批判し、その拡大に歯止めをかけるべきと主張した。選挙結果は当選しなかったものの、共和党の有力政治家として全国的に知られる存在となった
京都で斉彬の訃報を聞き、一度は殉死しようとしたが、僧である月照に説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。
安政の大獄で終われ、月照とともに入水も奇跡的に西郷は助かる。
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居することになった
藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。
久坂玄瑞への手紙では「江戸はおもしろくない」と書いている。
従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。
帰国した後は遠征記などを記す。晩年は鬘を着用していた。また、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。
出獄後、村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾。後藤象二郎らの知遇を得る。
甲州における出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で一帯を取り仕切る保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う(逃亡先で病死)。
1859年には尾張知多亀崎乙川において久六を急襲し、殺害。
久六を殺害された子分・博徒ネットワークは黙っていない。「昼伏夜行」で次郎長一派は尾張からの脱出を試みる。大政、石松などを連れ、甲州上州、越後、加賀、越前、さらに四国へと長い逃避行。
江戸へ出て奥平家の中屋敷に住み込み、蘭学を教える。これが慶應義塾の基礎となる。
1858年
幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。
だが、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。
さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。
結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。
1858年
千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授される。
剣術修行を終えて帰国。