1940年の東京オリンピック開催が正式決定。しかし同年嘉納治五郎が死去。日中戦争の激化に伴い、1938年に開催を辞退。
タグ: 1936年あの人は何をしていたか
38歳の田畑政治(1936年)
ベルリン五輪で本部役員を務める。
日本は競泳で金4・銀2・銅5の成績を残す。
記者として二・二六事件の取材をした。
58歳の吉田茂(1936年)
駐英大使に就任する。
駐英大使としてはイギリスとの親善を目指すも、東アジアでの情勢が悪化したことからうまくいかなかった。
また、広田内閣が組閣された際には、外務大臣になるはずであったが軍部の反対に合いかなわなかった。
※吉田茂は英米よりの考えをもっていたため軍部から反対をうけた
親英米の考えを持っていた吉田であったが、日独伊三国同盟には反対であった。
52歳の山本五十六(1936年)
2月に二・二六事件が起こる。
※陸軍皇道派の青年将校らが起こしたクーデター未遂事件
この事件では、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが死亡し、侍従長の鈴木貫太郎(太平洋戦争終了時の総理大臣)が負傷、そして岡田啓介内閣が総辞職した。
五十六はこの事件の際、反乱に賛同した海軍の青年士官を一喝するとともに、鈴木貫太郎や岡田啓介を助けた。
11月には日独防共協定が締結される。
※日独伊防共協定ならびに日独伊三国同盟の前身
55歳のパブロ・ピカソ
人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。
13歳の司馬遼太郎
私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになる。
18歳の田中角栄
中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。
これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベーターに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。
23歳のロバート・キャパ
47歳のアドルフ・ヒトラー
非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。
当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを活用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。