58歳の吉田茂(1936年)

駐英大使に就任する。

駐英大使としてはイギリスとの親善を目指すも、東アジアでの情勢が悪化したことからうまくいかなかった。
また、広田内閣が組閣された際には、外務大臣になるはずであったが軍部の反対に合いかなわなかった。
※吉田茂は英米よりの考えをもっていたため軍部から反対をうけた

親英米の考えを持っていた吉田であったが、日独伊三国同盟には反対であった。

52歳の山本五十六(1936年)

2月に二・二六事件が起こる。
※陸軍皇道派の青年将校らが起こしたクーデター未遂事件

この事件では、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが死亡し、侍従長の鈴木貫太郎(太平洋戦争終了時の総理大臣)が負傷、そして岡田啓介内閣が総辞職した。

五十六はこの事件の際、反乱に賛同した海軍の青年士官を一喝するとともに、鈴木貫太郎や岡田啓介を助けた。

11月には日独防共協定が締結される。
※日独伊防共協定ならびに日独伊三国同盟の前身

13歳の司馬遼太郎

私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになる。

18歳の田中角栄

中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。

これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベーターに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。

23歳のロバート・キャパ

フランスの写真週刊誌『ヴュ』の1936年9月23日発刊の号に彼らの写真が採用され、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルが付された。

キャパの写真「死の瞬間の人民戦線兵士」

 

さらに翌年その写真が、大きな発行部数を誇り影響力の大きかったアメリカのグラフ誌『LIFE』に掲載された際に撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記されていたことで、この名が一躍知られることとなった。「崩れ落ちる兵士」と呼ばれている写真である。この写真を公表したころから、タローらの「そそのかし」の通りに、フリードマンは「ロバート・キャパ」という名前を用いるようになったとされる

47歳のアドルフ・ヒトラー

非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。

当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを活用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。