44歳の陸奥宗光(1888年)

日墨修好通商条約の締結。

日本は幕末に安政五ヶ国条約(米・蘭・露・英・仏との二国間条約)を初め「関税自主権がない、領事裁判権(外国人が日本で犯罪で起こしても、日本側が罰せられない)を認める」といった不平等条約を結んでいた。
明治維新後、欧米化した日本はこれら不平等条約の改正を1つの目標として外交を展開していく。

このような情勢の中、陸奥は外務省に務め駐米公使ならびに駐メキシコ公使を兼任する。
そして、11月には日本全権としてメキシコとの間で日墨修好通商条約を締結させた。
※日本初の平等条約で、メキシコにとってもアジアの国と結んだ初めての条約

44歳の新渡戸稲造(1906年)

京都帝国大学で法学博士の学位を受ける。

また、文部大臣・牧野伸顕により「日本のリーダー育成」にふさわしい人物として評価され、第一高等学校(現・東京大学教育学部と千葉大学医学部・薬学部の前身)の校長となった。

44歳の徳川家康

1586年、秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。
秀吉実母の大政所も家康は岡崎城に受け入れた。

家康は同年10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

44歳の水木しげる

少年漫画路線が当たり、44歳にしてようやく人気を集め始める。『悪魔くん』が実写でテレビドラマ化。最初の放送は、実家の両親も上京して一緒に正座してテレビを鑑賞し、感激して番組終了後は拍手をしたという。またこの頃からプロダクション制をとり、調布の自宅を水木プロとする。

44歳のサン=テグジュペリ

7月31日、9回目の出撃で、グルノーブル及びアヌシー方面の高空写真偵察につくが、ボルゴ基地を出たまま帰らなかった。地上に残した彼の最後の言葉は「ドレス・ダウン6号よりコルゲートに、滑走離陸してよろしいか」であった。ドレス・ダウンとは裸馬の意。彼の死亡については当初不明とされ、後にいろいろな説が出てきているが、ほとんどは結局不明としている。

44歳の吉田秀雄

上田3代社長がGHQの改正公職追放令に該当し辞任、吉田秀雄が第4代社長に就任

この年に電通経営の三施策を打ち出していた。その一つが商業放送の設立であった。残る二つは、クリエーティブ技術の向上、マーケティング理論の確立。

吉田が設立準備委員長に就任。商業放送実現の推進をする。

社の資金繰りに悪戦苦闘を強いられる中、ときを同じくして自薦他薦に関係なく、「電通」の社員を募集しつづけた点であった。
しかも、「公職追放」に該当する者を、それを承知で傍系会社まで作って入社させている。 優秀な人材こそが広告界の発展にかかせないという考えがあったという。

44歳の三浦知良

2011年3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチにおいてJリーグ選抜に選出され、得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露。

このシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップ。

12月、横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。

サングラスだけでなくメガネの愛好家としても有名なカズは同年「第24回 日本メガネベストドレッサー賞」においてスポーツ界部門で受賞。

44歳の伊藤博文

朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印。
12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。
太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務める